日本的展開の秘教(密教)の集会
◎大司命節の期間に集会する
毎年10月9日〜11月8日(太陽暦)は、“大司命節”という幽玄なる神界の司命秘機の行われる尊秘の期間である。
このことは宮地堅盤大霊寿神によって、この現界にもたらされた神界の一大秘密である。この事実を明確に人間界にお遺しになった方は、宮地師僊以外には遂におられなかった。
師僊のお遺しになった霊著『異境備忘録』は、その意味だけでも人類に贈与された一大霊典ということができ、いやしくも日本人で霊的世界に憧憬し、覚醒を目指す者は必ず読まなくてはいけない霊書である。
しかし、読み方にもいろいろとあり、通常はそういうことも分からずに畢わる。血肉に成り得ずにおわるのだ。
第一回のJSS自然智の集会が、この期間に開催されることは、実にめでたいことである。
◎淡々と縁起をみる
縁起というけれども、たしかに縁起の中にすべてが包含されている。縁起をみるということが大切なのである。
縁起と云うのは流れや交流でもある。一つの事象の中に未来の種子が入っている。だからわたしは、今回の集会に於いて淡々と縁起をみている。縁起をみるというのは、因縁をみると云うことである。
仏法を奉ずるものは、縁で以て法を説く。すべて縁で指導してゆく。
そのご縁にあわせた形で法を説いて指導するのである。ご縁がなければ度し難いのである。
“縁無き衆生は度し難し”というであろう!
◎秘教の日本的展開を示す
はじめに云っておきますが、すべてを理解し切ることは、とても難しいということです。
書けば一冊か幾冊かの本にもなるし、こちらはエッセンスや詳細を述べますから、頭では理解できるでしょう。しかし、体得となると大変難しい。もう感覚的な問題になるからです。
肉体を伴っている運動や所作、儀礼。肉体を伴う感情。肉体を伴う精神や知性的な理解。それらのことは能力の差はあれ、努力や考察によって理解しうる。そういうことです。
しかしながら、それを越えている感覚は、東大出の抜群の知識・知能を以てしても理解はできません。
その道をはじめは少人数に示すのですが、時間的な条件からはじまってさまざま考えると、難しいなぁと思うのが本音です。
将来、わたしのほうの体制がマスターのご加護とご指導によって、内弟子受け入れともなれば、一種の缶詰状態で教えを共有できるでしょうが、弟子が生きてゆくのにどうしたらよいかという別の問題が生じてきます。
お寺でもかりそめにやって存立する方法もあるが、それでは意味がない。まあ考え考えして歩めば答えは出てくるでしょう。
花角有 川島龍徳しるす
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- 2015.09.23 Wednesday
- 00:00
言葉の限界を感じる(3)
・師匠に対して 法友に対して
問題は、師匠に対して、法友に対しての態度である。
師匠にしても法友にしても、先達にしても、究極的には“友”なのである。しかし、秘教や密教、神道や普通の仏教的な知識ですら、まったく用語すら分からないレベルの者と、大学の講師に即なれるような研究者と、会話や態度に於いてタメ・対等と云うことがあるだろうか?
何かを教えてもらう、あるいは教えてもらったということがあるならば、それは先生であったり法友ということになる。しかし、いろいろな雑学的な書籍を渡したり、飲み物食い物を渡したとしても、それは何かを伝えたと言う事にはならない。
わたしは講習などやっても通常では得られない知識や秘伝、そういうものを体験を込めて伝達している。体験を伴った内容を教えられる人はあまりおりません。
このような教え方をしている者が稀なことをどう考えているのだろう?
そのことが分かっていれば、不遜な態度や、しらっとした悪態はできないと思う。
受け入れるだけの素地・素質がないのならば、はじめから来なければいいのだ。丸裸になって指導してくれと云って、こちらも請け負ったと宣言した間柄ならば、一切の責任をもって導くけれども、なかばお仲間のような関係で、不遜な態度をする者をどうして慰撫し教えなければならないのだ。そういう義務がわたしにあるのだろうか?
そんな義務などわたしにはありはしない。それは単に講習会に参加した者の悪いクセ、よくない性格をいかんなく発揮しているというだけのことだろう。
講習料はたったの三千円。腐心して準備しているこちらのことは全く考えず、平気で不遜な態度をする、銭は返すから、こっちの努力や時間を返せと云いたくなる。だからバカバカしいので理解者だけを集めて指導します。不遜さやタメ口、不規則発言をするような者はわたしの心の領域には入れません。入りたければ不遜さと余計な事をベラベラ言うその口にチャックをつけるように。それをマスターに誓いなさい。
・象を触る盲人なり
上記のような態度の者が修行や巡礼など敢行しても何の感応もありません。
あるとあったと思っているのはご本人だけで、それは霊的にも非常に低い、エーテル体レベルの体験にすぎない。(なにかの功徳はあるようだけれども、霊的な体験は積めない!)
今回の講習会で霊的真相が分かっている人など一人もいません。
まだまだ、ぜんぜん。道にすら入っておりません。
人間、化けるから明言できないないが、敢えて言うならば、わたしか私に匹敵する能力・法縁・体験を持つ者に指導してもらわない限り、自分だけの力で今のわたしの地点まで来ることはほとんど不可能です。
わたしは自分を師匠とは言わないが、ある種の霊的な導き手であることは間違いなく、現代の日本に於いて自分に類する能力を持つ者は稀にしか居ないということは事実であって、曲げようのない真実なのである。
そういうわたしでもいつかは肉体の死が来る。
だから今後は時間を大切に使いたいと思う。諸行無常、存在とは実に虚しい。だから非常に気分の悪い状況の講習会は致しません。今回は見事に落第者が続出したのです。今回とまったく同じメンバーで集うことは二度とないでしょう。少なくとも私が主催する集いではないでしょう。
あしからず。
最後に・・・
お経や祝詞を挙げても、倍音すら発声できないレベルの者が、霊的な感応云々云っても全然説得力がない。(坊さんでも神主でも“倍音”すら出せないのはプロではない)
昔、どこぞの整体かなんかの大先生が、自分の弟子がわたしのもとにゆきたいと言い始めたんで、こういったと言う。「あの先生は、霊感はないよ」と。いま、その大先生にお返しを込めて、ちょいと洒落て言挙げしましょう。
大先生、あなたはせいぜいエーテル体レベルか思い込みの霊感があるだけですよ。
そういう低レベルの界の海を泳いでいるだけなのです。それが自覚できていないのですね。おかわいそうに・・・。
わたしはもっとその上の階層に通達しており、あなたよりも高等な能力を保持しているからあなたには皆目わからないのです。要するに、3人の盲人が大きなアフリカ象の各部分を触って、それぞれが象さんはこんなようなものだと憶測しているようなものです。部分だけを触って全体を知ることはできないのです。
序章参加の貴方達がわたしを見ているというのは、それと同じこと。
なんにも分かっていないんです。
花角有 川島龍徳しるす
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◎言葉の限界を感じる(2)
・馬鹿馬鹿しさを感ず!
一昨日の「仙人食講座・序章」でわたしは馬鹿馬鹿しさを感じてしまいました。
皆さん夫々の事情の中で、やりくりしながら、それも秋のお彼岸の入りだというのに、講習会に参加された。このことにわたしは敬意を表し、その労をねぎらうものですが、それを差し引いても馬鹿馬鹿しさを感じてしまうのです。
その理由は“聴く”ということです。仏教では“聞法”といい、“聞・思・修”というのです。教えを聴く、それを沈思瞑想して真義を知る、さらに完全に実践する。キリスト教でも或る会派では会則の第一に“聞け”ということを挙げています。
聞くことの難しさです。話をしていても全然聞いていないのです。脳ミソの聞くべき場所に教えが入らない、入っていない。その以前に自分の思考や妄想が先にあるのです。
半数以上の人が聴くことが出来ていない。それどころかうわの空で聞いている。何を考えているのやら、不遜、興味なし、聞く気がないのなら時間もお金も使う必要はないでしょう。
わたししか教えられないということを咀嚼して教えている。他の誰にも先ず教えることの出来ない“成仙への道”を示しているのにです。
わたしにはすでにマスターが背後にいて、霊的な指導を陰日向で受けているという自覚があります。こういうことは滅多にないことなのです。このことの価値すらも多分分かっている人はいなかったと思います。滝に入って、荒行みたいなことをやって、霊地参拝して、瞑想したり、鎮魂・密教行法・読経をやったり、本をたくさん読んだり・・・、そんなことをやっても真のマスターが指導してくれることはないのです。
本来ならばこういうことはこのような公開のブログで云うべきことではないのでしょうが、いちいち口に出し話すのも面倒なので、こうしてサラリと書いてしまうわけです。
ほんとうに馬鹿馬鹿しく思い、もう教えをいままでの連中に述べるのは一切合切やめようかという考えが出てくるのも事実です。まったく違うグループを創造しようかと思いも出てきます。
人間の聞く耳を持たない、聞く容量がない、不遜さやそれに類する性格上の悪いクセは、秘教・密教を学ぶ上ではまったく必要のない性質です。
世間にある一般的な信仰や気功・整体・修行みたいなものをやっても、肉体のサヤの中に存在する、せいぜい“エーテル体”レベルの能力しか得られません。ある種の夢見とか、霊が見えるとか、そういう類いはエーテル体レベルです。その上の、アストラル体、メンタル体、コーザル体には遥かに及びません。
人はコーザル体を越えてはじめて通常の輪廻転生から解放される。このような教えを悉く知らぬうちは、本当の宇宙の実相を知ってるということはできません。
謙虚であり、礼をわきまえ、尊い真理の教えを望まれるのならわたしは交流を致しますが、不遜な態度をする人間や不規則発言を繰り返す輩は、わたしの中では問題外の人物です。法の器ではありません。
わたしは多くの友を必要としておらず、すでに法を語れる仲間も方々も点在ではあるが居りますので、わたしが友をこれ以上必要としていないことを、ここで明記しておきます。ですから、今後のお付き合いは、皆さん次第だということです。
花角有 川島龍徳しるす
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◎言葉の限界を感じる(1)
・口舌の虚しさ
今さらながら口舌の虚しさを感じています。
昨日「仙人食講座・序章」というものを行なったわけですが、前提の知識と云うものが一人一人ちがう訳です。ですから言葉が伝わらないという傾向があるわけです。
30年かけて学んだものを1年2年で教えきること自体が不可能です。しかし、わたしとしては誰でもがというと、非常に難しいのですのですが、大抵の人が共有できる“秘教的な教えや手法”をシェアしたいのです。
今回は仙人食ということですが、お塩について正確に学んだのです。実際に食べて、実物を各々が得て、説明も行なったわけです。心や魂は、肉体のサヤの中にあります。肉体を離れて存在しません。先ずはその肉体を健全にして、一個一個の細胞にまで教えを浸透させる必要があります。
そのために食事というもの、食事法というものを見直して、食物をマントラや観想で加持してから戴く必要性があります。
こころは主に心臓の部位に存在しますが、頭にあるという人もおります。たしかに心臓や頭にあるのですが、もっと深く考察するならば、一個一個の細胞、60兆個の細胞すべてに“心がある”と感じて、食物を通じて教えを吸収しなければ、この身、今生で霊的に進化することはほとんど不可能です。
聖者として生まれてきた人間は、このようなことを自然にやってのけてしまうのです。しかし、凡夫の身で生まれてきたものは、このようなことはできないのです。食事作法のようなものから学び、真の秘教的な知識を学ばない限り、比較的低いレベルの境地にしか達することはできないのです。
これは肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体、ブティ体と上昇する体のなかで、精々エーテル体どまりの知見しか得られないことを意味します。世間でいう、霊能者や普通の行者は、エーテル体止まりなのです。気功師や整体師もエーテル体どまりなのです。
アストラル体を得て自由自在の境地にまでゆくことは、ほとんどできないのです。
真実に霊的な自由自在を得るには、食事法からはじまって、睡眠法、躰動法、真のみそぎを得なければ為すことはできません。
日本的な秘教の実現方法、こういうものをわたしは既に得ており、先人でこれを知り、付与した人を寡聞にして知りません。偉大な先師先覚はおられますが、秘教的な知識でもって、日本的展開の宇宙規模の教えを述べた方はおられないのです。
残念ながら、わたしのもとに来る方々でも、このことのほんとうの価値をいまだ分かっていないようです。それは無理もないことなのです。わたしが教えの全貌を語っていないのですから・・・。
わたしはこれらの悟りを一冊の本にしようと思っております。年末までに原稿を書き上げようと思っています。きっとバカ売れはしないでしょうが、それでもそのことによって、より多くの人々がわたしを訪れることになるでしょう。
ますますわたしは時間がなくなり、いままでのように親しくお話しできる時間はなくなるでしょう。ですがそのことはわたしの本意ではありません。
昨日、小グループのサークルの可能性を述べましたが、あなたはどう思いますか?それが可能なのか?そのような思いがあなたに在るのか?
昨日参加したあなたに問いたい。またこれから縁のあるあなたにも問いたい。
共有することはお互いを尊重することです。疑いの心や、増上慢の心があるようでは共有することはできません。教えはむしりとったり、見下していたのでは共有できないのです。自分の性質をもっと進化させ、自然に共存し共有する心を成長させなければ、ほんとうに進化、霊的な発展はないのだということを、あらためて表明したいと思います。
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花角有 川島龍徳しるす
- 2014.01.04 Saturday
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