密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳㉕】

  • 2019.09.13 Friday
  • 08:00

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳㉕】


≡ 日蓮聖人 竜ノ口大法難の寂光浄土にて ≡



◎日蓮聖人 竜ノ口の大法難


日蓮聖人は、文久8年9月12日に竜ノ口法難に遭われた。

龍口とも云う。齢50歳の時の法難である。時の権力者からの「首刎ねの沙汰」だ。

絶体絶命の大ピンチだ。玄奘三蔵といい 日蓮聖人といい 凄い艱難辛苦を越えての

求道である。



今度、皆さんと会う時には、首つなぎの真髄を伝授しよう。

必死の祈祷、法の道を伝えよう。


私はここで、日蓮聖人 斬首命令の経緯について述べたいと思う。

日蓮聖人は坊さん中の坊さんで、ただ法華経を広めんとした。

権力者とのいさかいもあったが、全ては法華経の仏法の為だった。

斬首命令は権力者からの発令だが、その直前に注目すべき事件があった。


それは文久8年6月18日〜7月1日に於いて行なわれた、

「極楽寺良觀との祈雨対決」である。極楽寺の良觀 即ち良觀房忍性。

この僧は、彼の興正大師叡尊の直弟子である。叡尊と言えば、戒律の復興者と言われ、

光明真言を念仏・唱題の如く普及せしめた大徳だ。叡尊、良觀房共に真言律宗の

阿闍梨である。


日蓮聖人は、この高名な僧と「祈雨対決」をしたのだ。

法華経を奉じない貴僧には「雨降し」はできない。負けたほうが弟子になる。

日蓮聖人は、三度にわたり確認したという。結果は、日蓮聖人の勝ちだが、

良觀は無視した。記録にも無い。


良觀房の祈祷はとても大がかりで、凄い人数の祈祷僧で「雨請い」が行なわれた。

雨請いに長けていた日蓮聖人の敵ではなかった。その後、日蓮聖人斬首命令、

佐渡流刑追放に繋がっている。



日蓮聖人は「首つなぎの ぼた餅」に込められた法華信仰の功徳によって、斬首を免れた。

日蓮聖人は「妙法蓮華経 観世音菩薩普門品」の経文の言葉を実現して見せた。

「或遭王難苦  臨刑欲壽終  念彼觀音力  刀尋段段壞」

(或いは王難の苦に遭うて、刑せらるるに臨んで壽終わらんと欲せんに、

彼の觀音の力を念ぜば、刀尋いで段段に壞れなん)

「或囚禁枷鎖  手足被杻械  念彼觀音力  釋然得解脱」

(或いは枷鎖に囚禁せられて、手足に杻械を被らんに、彼の觀音の力を念ぜば、

釋然として解脱することを得ん)


日蓮聖人の首を刎ねようとした刀は弐段参段に折れたのである。

そこに幕府からの斬首処刑の中止命令。聖人は一命を取り留めた。

翌日、流刑地に向かって出発した。



◎日蓮聖人と龍神の縁起


江ノ島腰越の龍ノ口には、「五頭龍神」が祀られていた。この龍神は江ノ島の

女神に恋をした龍神だ。江ノ島の女神とは江の島弁財天のことである。

龍口寺の地は、首刎ねの刑場であり、それは先述の五頭龍神の神示によって

是くなったという。


或る神人ともいうべき御方が、「日蓮は前世が龍神である」と述べている事実を知り、

私は得心したのだ。五頭龍神は江ノ島と関係があり、江ノ島の洞穴にこの龍神は祀られて

いるが、その洞穴は富士の人穴その他に通じているのである。

貴方は私が何を言っているのか分かるか?


富士・身延山系にも数々の龍神がいるのだ。

五頭龍神と富士・身延山系の龍神たちは、人間でいえば知人・友人の間柄だということ

である。富士の人穴の奥の奥まで私は見てきて、礼拝を行ない、般若波羅蜜の禅定を通じて、

これを感得した。日蓮聖人の前身(前世の一つ)は、富士・身延山系の大龍神なのである。

だからこそ、斬首は免れるべくして免れたのである。

(※ 日蓮宗の総鎮守に七面大菩薩がいるが、「女人成仏現証」の龍女なのである。)



◎首つなぎのボタ餅


竜の口の刑場で唯一、日蓮聖人だけが斬首を免れて、この地は寂光浄土になった。

聖人遷化の後、直弟子が住んで教えを広め、首つなぎのボタ餅の祈祷が習いになった。


毎年9月12日深夜から13日未明に、龍口寺のお上人さまが法儀を執行し、

首つなぎのボタ餅を「餅撒き」するという縁起の良い行事が行なわれる。

(※ 今年は、「感謝のお題目」であった。お題目は尊いものであるが、

この意味は、「オン マニ ペメ フーム」と同じである。)



この「首つなぎのボタ餅」には法華の信者が、 「南無妙法蓮華経」のお題目を

何万遍と唱題して「南無妙」を込めて作るものなのだ。

これは本当に「首つなぎ」の験しのある有難い「ボタ餅」なのである。



◎法華行者との出会い


私がさかんに滝行を修行していた頃、滝場に来ていた日蓮宗の僧侶が、

話しかけて来たことがあった。


その方が言うには、

「自分は人に話しかけることはしない。ですが貴方は一体誰ですか? 

さっき般若心経を唱えていたが、一体どういう方なのですか?

貴方は富士の○○寺はご存知ですか。是非行ってください。それから龍口寺の

入り口付近の刑場で亡くなった人の為に般若心経を唱えてあげてください。

あそこは般若心経でなくてはダメですが、我々 日蓮宗の僧侶は般若心経は、

お唱えできない。よろしくお願い申し上げます。……。」


まあざっとこんな感じであった。

ここに「摩訶般若波羅蜜多心経」を奉ずる私の価値があるのであろう。

修行は深く、真剣勝負である。この僧侶は慰霊には般若心経がよいと分かっていたのだ。


刑場の跡には、五輪の塔があり、そこに縁のある衆生が「般若心経」を欲している。

私は、灯明の御供養をし、何種類もの仏菩薩のお香を焚いて、摩訶般若波羅蜜を

追善供養した。


読者も自然の心に従って「摩訶般若」の行を深くしてゆきなさい。

観自在菩薩を念じ、その功徳を巡らせてほしい。

ここまで摩訶般若を理解したら、是非とも真の観音経、摩訶般若波羅蜜を念じる

経文を奉じていただきたいと思う。

(※ 真の観音経、摩訶般若波羅蜜の勉強会開催に賛同の方は ご一報ください。

その要望により開否を決めます。)


合掌

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〔『摩訶般若波羅蜜多心経 小経本 印施の募集』〕

来年2020年(令和二年)摩訶般若の功徳を込めた小経本を作成し、広く布施行を

おこないたいと思います。ご協力頂ける方を募集します。詳細は後日発表します。

kawashima.seitai@gmail.com までご連絡

川島 謹記

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川島徳慈しるす

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳㉔】

  • 2019.09.12 Thursday
  • 08:00

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳㉔】


≡ 玄奘三蔵と摩訶般若波羅蜜多心経の物語❿(最終回)≡



◎天竺への往路での「摩訶般若波羅蜜大明呪経」


玄奘三蔵法師は、天竺への大法旅を断行し、これを成し遂げた。

その行跡は超人的である。彼は旅のはじめに、「度一切苦厄の功徳」のある

「般若心経」(鳩摩羅什訳版)を、乞食僧の姿に化身した 観世音菩薩より直々に授与され、

その大功徳で九死に一生を得た。艱難辛苦の連続を超克したのだ。


鳩摩羅什の般若心経は、玄奘訳と重なる部分が多々ある。

「摩訶般若波羅蜜」

「度一切苦厄」
「色即是空 空即是色」

「是諸法空相 不生不滅 不垢不淨 不増不減」
「是故空中 無色無受想行識」
「無眼耳鼻舌身意 無色声香味觸触法 無眼界乃至無意識界」
「無無明亦無無明尽」

「無苦集滅道」
「無智亦無得 以無所得故」

「心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖」

「究竟涅槃」
「三世諸仏依般若波羅蜜故」

「得阿耨多羅三藐三菩提」
「故知般若波羅蜜」
「能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜呪即説呪曰」
「竭帝竭帝 波羅竭帝 波羅僧竭帝 菩提僧莎呵」

(※ 上記が玄奘訳と重なる部分)


梵語からの翻訳なのに功徳力が発現する。

この秘密は観世音菩薩にあると思われる。佛法守護の仏様であり、広大無辺の功徳力が

ある、観世音菩薩が般若心経の成立に関与していたということである。

般若心経の訳経に、観世音菩薩(観自在菩薩)が関与していたからこそ、

古来から「魔除けのお経」として伝えられてきたのである。

(※ 如来加持力が込められているということ)




◎天竺で梵語版「摩訶般若波羅蜜フリダヤのスートラ」を得る


玄奘三蔵は、天竺ではじめて正式なサンスクリット語版(梵語)の「般若心経」を

得たのであろう。同時にその読誦の発音も学んだに違いない。

サンスクリット語が充分に出来る人に教わるか、インド人の実践者より口伝えで

習うしか、正確な発音を学ぶ術はない。


摩訶般若波羅蜜多心経という場合、

梵語では「プラジュニャー・パーラミーター・フリダヤン・スートラ」だが、

玄奘三蔵も鳩摩羅什三蔵も、「摩訶般若波羅蜜(多)」としている。

このことは古い時代の原典には、「マハー・パンニャー」という聖語が元に

あったことを含んでいると思う。

私はこの「マハー・パンニャー」「摩訶般若」こそが、最大の秘密だと思うのである。


さらにフリダヤの訳出。鳩摩羅什は「大明呪」とし、玄奘は「心」とした。

ここが第二の秘密だ。


最後のマントラム。

「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディー スワーハー」

原典の響きを知っていてこそ 本物になると思う。これが第三の秘密。

砂漠の旅路を思い浮かべ、梵語の般若心経マントラを唱えてみなさい、

心(魂)に響くものがあります。



◎天竺からの帰途に「摩訶般若波羅蜜多心経」は読誦された!


玄奘三蔵はいつ「摩訶般若波羅蜜多心経」を訳経したのだろうか?

私はその過程を次のように考える。

‥啓核[垢留路で、般若心経の威力・功徳を知り、大意・原意をつかんだ。

天竺で梵語版を得て、さらに正確な理解と、正確な意味をつかんだ。

E啓海らの復路で、自分が訳経したお経を読誦し、行く先々で施経し、霊験奇瑞を現した。


鳩摩羅什訳の「般若心経」を土台に、

梵語の真意が込められつつ、

正確な漢字に訳経された。自分の天竺法旅の体験をすべての込めて、

玄奘三蔵訳「摩訶般若波羅蜜多心経」は完成した。


玄奘三蔵のインド大法旅16年間の結晶が、

玄奘三蔵訳の「摩訶般若波羅蜜多心経」だと言っても過言ではあるまい。

それには、三蔵法師がおこなった天竺への大法旅の血と汗の結晶が込められているのだ。

「帰命」の心で「般若心経」を唱えた時、必ず「摩訶般若波羅蜜(の智慧)」が生じ、

「摩訶不思議」が示現するのである。



◎こうして摩訶般若波羅蜜多心経を読むべし


玄奘三蔵法師のご苦労を思うべし。

弥勒下生を憶念するべし。

観世音菩薩の大慈悲を思うべし。

大般若佛母の大功徳を思うべし。

仏陀釈迦牟尼の仏徳・仏智の御恩を思うべし。

「摩訶般若」に帰一せよ。

「色即是空 空即是色」の理を念ぜよ。

人生は砂漠をゆく旅だと思う。

この世は極楽浄土だと思う。


眉間の命令輪から上方に意識を向けよ。

頭、心臓、丹田などの宮で読誦せよ。(特に心臓は大切)

背骨で読誦せよ。

「唵」「阿吽」の真言、呼吸を体得せよ。


ひたすら先ずは10万巻の般若心経読誦をすること。

これには理屈がない。

心、呼吸、言葉、身体(細胞)に「摩訶般若」を満たす。

それは「摩訶般若波羅蜜多心経」を読誦して満たすのである。


〔秘伝〕般若心経の「心」は、フリダヤ、つまり「心臓」である。

「心髄」という意味にもなる。だがこの「心」は『心髄(心臓)の呪』

「心呪」のことである。

ゆえに、鳩摩羅什は大明呪経とし、玄奘は心経としたのである。

では、その「心呪」とは何か?

多くの人は、最後のマントラだと思うであろう。それも確かに間違いではない。

ある理由により間違いではないのだ。

だが、本当にところは「摩訶般若波羅蜜多心経」の全部がマントラなのである。

さらに、この「摩訶般若」を「唵」の一字に集約できれば、すべてのマントラを

ホトケのご真言と化すことが出来る。以上


さて、長々と「玄奘三蔵法師と般若心経」について述べてきた。

すべてを語り切ったわけではないが、摩訶般若波羅蜜多心経の秘密の一端を

表現できたと思う。皆さんの個々の「自灯明行」に役立てたとしたら

著者の喜び これに過ぎたるはない。

健康に気をつけて人生の旅路を行きましょう。合掌


(玄奘三蔵と般若心経の物語り畢りぬ)終わり

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川島 謹記
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川島徳慈しるす

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳㉓】

  • 2019.09.11 Wednesday
  • 08:00

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳㉓】


≡ 玄奘三蔵と摩訶般若波羅蜜多心経の物語❾ ≡



◎祖師たちは玄奘三蔵に憧れていた!


日本の歴代の祖師ないし渡唐の僧たちは、皆 玄奘三蔵に憧れていた。

玄奘三蔵と言えば、もう伝説的な人物であって、それこそ超人的な僧侶であった。

太古の日本の僧たちにとって、途轍もない存在。それが玄奘三蔵への評価だったと確信する。


玄奘の書いた「大唐西域記」によって、お釈迦様の居られた天竺に、艱難辛苦の末

辿り着いた縁起の詳細が述べられている。これはトンデモナイ記録だ。

内容も想像すらできない壮絶なもので、その上 観世音菩薩やご眷属が助けてくれる

霊験奇譚になっている。


西域記では、見方によれば「摩訶般若波羅蜜多心経」の大功徳によって天竺法旅が

完遂できたことを表わしている。玄奘三蔵訳出による「摩訶般若波羅蜜多心経」が、

日本に(早いうちに)根付く上で、西域記の果たした役割は大きい。


歴代の祖師や入唐僧。

空海、最澄、円珍、栄西、道元。あるいは霊仙(れいせん)。霊仙は法相宗の人で、

インド人との会話を通じて『大乗本生心地観経(だいじょうほんしょうしんちかんぎょう)』

という未見の経典を訳して、唐で薬毒に当たって死亡した。その他にも沢山の渡唐僧が

いたと考えられる。そういう僧侶たちは、玄奘三蔵に憧憬の念を持ち、「大唐西域記」に

刺激され船出した。命がけの法旅に出た。そのような仕事の源流を作ったのは、やはり

玄奘三蔵法師だったと断定してよいと思う。その一つの事例として弘法大師空海の話がある。



◎兜率天の弥勒院内定衆を思うべし


玄奘三蔵は、弟子への遺言で「自分は弥勒佛の内院に生じて、弥勒下生の時に

一緒に生まれて来る」と言った。このことは前のブログ記事で述べた。


この言葉を聞いて諸賢は、すぐに思い浮かべることがあるのではないか?

それは空海の入定にまつわる話だ。

弘法大師空海は、亡くなる直前に「御影」というものを描かせ、それで奥の院に入定した。

これが高野山奥の院に端を発する「大師信仰」の元である。


この御影を御拝できるのは、最高位の灌頂を受けた大阿闍梨だけである。

ただしこの御影の写しを某寺に保存していた。その画像を元に種々の「お大師図像」が

あるわけである。だから何となく似ているのだ。

西洋でキリストを描くイコンと同じようなもので、必ず大元が存在する。



空海は弟子たちに、玄奘三蔵と同じように弥勒下生の時に生まれてくると言い、

それまでは奥の院に留まると遺言した。本身は兜率天の弥勒内院に在る。

古い真言宗 在家勤行式には、十三佛真言中の弥勒菩薩ご真言の後に、

「南無慈氏菩薩内定衆」というご宝号が記されている。

(※ 「なむじしぼさつないじょうしゅう」)


私の所蔵する江戸期の真言宗在家勤行式には、はっきりとそう記されている。

それは正確に「大師信仰」を受け継いでいた証左でもある。

「南無慈氏菩薩内定衆」、『(私は)帰命します 弥勒佛さまの内院の佛菩薩衆に』、

こういう意味である。慈氏とは弥勒佛の弟子ということ。釈迦の弟子は釈氏となる。


密教には弥勒信仰がきっちり入っている。これは空海が密教を学ぶのに「瑜伽師地論」を

読みこなしていたからこそである。玄奘三蔵が弥勒下生と共に生まれて来るというのと、

空海が弥勒佛下生の時に一緒に来るというのは、全く同じであり、

偉大な法旅に出たことも似ている。空海にも玄奘三蔵への憧れがあった。

空海が「般若心経秘鍵」を記していることも、玄奘三蔵への憧れの一端だと私はみている。


般若心経の中には、未来佛である弥勒信仰も込められていることを

諸賢はよく心に留めておいていただきたいと思う。



◎人生は砂漠をゆく旅であり、極楽浄土でもある!


玄奘三蔵の天竺への法旅。読者の中には、孫悟空の「西遊記」は知りながらも

「摩訶般若波羅蜜多心経」の大功徳との関係で玄奘三蔵のことを考えたのは

初めてだ、という方もいるのではないかと思う。


私は般若心経を唱える時に、必ず玄奘三蔵法師様の艱難辛苦の法旅を思う。

般若心経に玄奘三蔵訳とあるのを見ると、心の底から歓喜と勇気が出てくる。

1400年も前に「摩訶般若波羅蜜」の不思議を顕わし、完璧な漢字で訳経した。

ご自分の摩訶不思議の体験をこめて「摩訶般若波羅蜜多心経」を衆生の為に遺された。

これは凄い業績だと貴方は思わないか。


人生は旅である。それも砂漠をゆく旅路だ。

貴方はたった独り。否、横には仲間やラクダや馬がいる。

そういう苛酷さを思ったら、今の境遇がどれほど有難いか。

砂漠を行くのに一番のお守りは「摩訶般若波羅蜜多心経」だ。

「摩訶般若」は、お釈迦様の悟りに通じている。すべての仏様は摩訶般若に依りて

仏智を得たのである。


この世は、極楽浄土でもある。密教の言葉に「稀に人身を享けて」とある。

人間界の衆生に生まれることは、とても幸運なことなのだ。

要はこのチャンスをどう生かすかだ。

人生は砂漠の旅路と思えば、自分の周囲が仏菩薩に見えるだろう。


「般若心経」は宇宙の摂理にもつながっている経典なのである。

地球上に宇宙開発時代が到来しても、般若心経の価値は不滅だ。

科学というものが、進めば進むほど、また「摩訶般若波羅蜜多心経」の価値も見直されて

くるだろう。般若心経の説く原理は、宇宙の原理だからである。


いよいよ次回は結びである。

(つづく)

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川島徳慈しるす

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳㉒】

  • 2019.09.10 Tuesday
  • 08:00

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳㉒】


≡ 玄奘三蔵と摩訶般若波羅蜜多心経の物語❽ ≡



◎玄奘三蔵と道昭和尚


玄奘三蔵のお墓を日本の軍隊が偶然見つけた。

中国でも奉祀され仏塔なども建立されたであろうが、日本では分骨されて

薬師寺の玄奘三蔵院でお祀りされた。


薬師寺と玄奘三蔵。

目に見えない糸でそれは繋がっていた。

薬師寺といえば奈良の南都六宗ということになる。

南都六宗の最高の学問は「法相唯識」であろう。


玄奘三蔵が天竺への法旅を畢わりて既に数十年。

日本も大唐を目標に、高度の仏教国家を目指していた。

貴族の家柄でなくても高僧知識になることができれば、最高位で殿上人になれる可能性が

あった。衣の色は緋の衣、従三位の身分だ。


そういう王法冥合ということが国家の理念として掲げられていた。

そんな中での玄奘三蔵の大活躍だ。当然このことは日本の朝廷にも伝えられた。

最新情報だ。これはもう是非とも玄奘三蔵から天竺直々の嫡法を移植せねばならない。



遣唐使として重い任務を与えられた一員に僧 道昭がいた。

この人は先祖が船連出身という家系で、元は百済から来た渡来人の血が入っていた。

学力、血筋、総合的に選出されたのであろう。


道昭は道紹とも道照とも号す。
白雉4年(653年)、遣唐使の一員として定恵らとともに入唐し。

渡唐の後、玄奘三蔵に師事して法相教学を学ぶ。玄奘はこの異国の学僧を大切にし、

同室で暮らしながら指導をしたという。
玄奘三蔵の紹介で隆化寺の恵満に参禅した。恵満は禅宗第三祖の直弟子だと

言われている。その禅法、佛祖嫡々の法を受けたほうが道昭にとっては良い

という判断があったのであろう。



斉明天皇6年(660年)頃に帰朝。

持ち帰った多くの経論・経典類は遷都後、平城右京の禅院に移された。

薬師寺建立というわけだ。



飛鳥寺の一隅に禅院を建立し、日本法相教学の鼻祖となった。
680年、天武天皇の勅命を受けて、往生院を建立する。
晩年は全国を遊行し、各地で土木事業を行った。
700年に72歳で没した際、遺命により日本で初めて火葬に付された。

その骨の行方は分からず、謎とされている。

◎玄奘三蔵と道昭和尚の前世奇譚


『続日本紀』に道昭が玄奘三蔵から言われて言葉が遺っている。
「私(玄奘)が、西域天竺に旅した時、道中飢えに苦しんだが、食を乞う所もなかった。

突然一人の僧が現れ、手に持っていた果物(梨の実)を私に与えて食べさせてくれた。

私はその梨を食べてから気力が日々健やかになった。あの時の梨を与えてくれた法師は

貴方と同様である。」

(※ 「貴方と同様」とは、前世のあなたであるという意味である。)



玄奘は道昭を自分と同じ部屋に住まわせ寝起きを共にした。

玄奘三蔵は自分の弟子たちに、道昭が異国の人だからとて軽んじてはいけないと

厳命していたという。

(※ 薬師寺建立に関わった道昭。そのお寺に師匠の玄奘三蔵の遺骨が奉祀されるのは

必然的ということである。)


玄奘三蔵が砂漠で大ピンチだった時に、果物を施してくれた僧侶、

それが前世の道昭だっだ。玄奘は「摩訶般若波羅蜜の経」を読誦していたのです。

道昭の前世はその祈りに感応していたわけである。この人もまた観自在菩薩と

深いご縁を持った高徳の人だったのである。


◎道昭へ玄奘三蔵のアドバイス

超一流の訳経官だった玄奘三蔵は、学理・学究からの即身成仏は至難であると

分かっていたのであろう。「瑜伽師地論」の「瑜伽の法」を実現することは、

特別な禅定によらなければ難しいと踏んでいたからこそ、愛弟子の道昭には、

禅の学びを勧めたのであろう。


こういう話が伝わっている。

「経論は奥深く微妙で、究めつくすことは難しい。ゆえに貴方(道昭)は禅を学んで、

日本にそれを広めるのがよかろう」と。


『続日本記』には、道昭が熱心に座禅を行ない、ある時は3日に一度立ち上がり、

ある時は7日に一度起った。ある日 道昭の居間から芳しい香気が出て、弟子が驚いて、

居間へ行くと、端座したまま息絶えていた。

遺言に従って日本初の火葬が行なわれたが、大風で灰と骨をいずこかへ飛ばされて

しまったという。謎の話である。

「般若心経」の功徳で、遺骨・遺灰すら空無に帰すという奇跡が起きた、これが私の

見解である。


道昭は、玄奘三蔵から直接、法相唯識の講義を受け、嫡々の禅法を修行し、

数々の漢訳経典をもたらし、「大唐西域記」(西遊記のもと)も著者 存命の時に

慧存され、弥勒佛の逸話、アドバイスを受けた。それはそのまま我が国の至宝になり、

日本仏教の源流になっていったのである。


「摩訶般若波羅蜜多心経」の大功徳は、日本にこうしてもたらされたのだ!

たった一個の「梨の実」の功徳。

あなたは布施の功徳を深く思うべし。

(つづく)
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川島徳慈しるす

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳㉑】

  • 2019.09.09 Monday
  • 08:00

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳㉑】


≡ 玄奘三蔵と摩訶般若波羅蜜多心経の物語❼ ≡



◎玄奘三蔵、長安に帰る
 
カイバル峠、カラコルムの山々を見る。バミール高原、カラクリ湖、

ヤルカンド、カシュガル。クスタナ(斫句迦)、ホータンにはオアシスがある。

有名な敦煌。ここは砂山でできている。ゴビは石と砂である。


思えばゴビ砂漠では何度か危機に遭遇した。

その一つに、食べ物が無くなってしまったことがあった。人家も無く植物も無い。

その時に偶然一人の僧侶が食べ物を恵んでくれた。年のいった人だったが、

果物(梨)を惜しげもなく玄奘に施してくれた。それで命拾いした。

大唐~天竺往復の16年間、あらゆる困難を乗り越えてきた。



ゴビを越えると大唐の都市の雰囲気が出てくる。そうして、ようやく長安へ戻る。

帰途のほうが容易だったが、決して楽ではなかった。
玄奘は帰途の間も、摩訶般若波羅蜜の経典を唱えながら法旅を続けた。
 
長安に着くと、天子様に拝謁。

玄奘「自分は生地の近くに少林寺があるので、其処で訳経したい」。

しかし天子様は、「穆太后(ぼくたいこう)のために建てた弘福寺がある、

そこで翻訳しなさい」と言われた。

それは皇帝の勅命だった。




◎玄奘三蔵の訳経生活と最期


玄奘三蔵の訳経生活。

持ち帰った経典類は馬二十二頭分あった。

日課の訳経が終わらないと夜も続け、午前一時に眠り、早朝三時には起床し

梵典に朱点を入れ、朝から訳したという。訳経できること自体が凄いのに、

桁違いの能力だった。
 
ほとんど寝ずに全経典を翻訳した。訳経の他に「大唐西域記」も書いていた。

玄奘三蔵は、大法旅を完結して帰唐して以後は、ほとんど寺院の中での訳経が

仕事だったが、最後の時期は玉華宮で翻訳作業を行っていた。玉華宮とは長安の北に

ある太宗皇帝の離宮であると言われている。


ここで気になるのは、般若心経の訳経だ。

玄奘三蔵が何時、どのように「摩訶摩訶波羅蜜多心経」を訳経したのかということである。

このことは、この物語最大のテーマであり、謎でもあるので、後々述べたいと思う。



玄奘三蔵は、深く弥勒佛を信仰していた。

その理由は、玄奘が瞠目していた教えは法相唯識であり、

その根本経典は「解深密経」であり、論疏は「瑜伽師地論」だった。

三蔵法師は天竺までゆき、「大般若経典(200巻)」、「瑜伽師地論」この大部の

経論を翻訳する、これが一番の事業だったのである。

瑜伽師地論は、世親(ヴァスバンドゥ)の兄、無著(アサンガ)によってものされた論書だが、

その書の中で、弥勒佛が出現してお説きになったという逸話があるからである。

(※ 兄アサンガは「瑜伽師地論」、弟ヴァスバンドゥは「阿毘達磨倶舎論」を記述した)



 




玄奘三蔵は、銅川(どうせん)市にある玉華寺で亡くなった。ここが入滅の地だった。

その最期というのが、弟子に向かって「自分はもう一度生まれ変わってくる」、

「弥勒の内院に生まれて、弥勒佛がこの地上に下生(げしょう)される時に、

共にこの世に降り、お手伝いをしたい」と。

その弟子が「ほんとですかお師匠さま」と。

玄奘三蔵は「必ずだ」、そう遺言して亡くなった。

また「自分のような汚い人間は筵(むしろ)にくるんで野原に深く掘って埋めてくれ」

とも言ったという。



今は興教寺というお寺があり、かつてその場所で日本の軍隊が神社を建てようと

丘を掘っていたら、石棺が出てきて、それが玄奘三蔵のお墓だった。

その石棺ごと中国の人にお返しした。中国人はこの事を大変喜んで、遺骨を少しだけ

分骨してくれた。日本の慈恩寺に納められ、後にそこから薬師寺に分骨され、

同寺の玄奘三蔵院にて奉祀されている。



日本の薬師寺(※ 玄奘三蔵院がある)、この古刹と玄奘三蔵法師のご縁。

それは仏縁であった。そのことを知ることは、摩訶般若波羅蜜多心経を知る

法旅であるとも言えよう。

(つづく)

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〔『摩訶般若波羅蜜多心経 小経本 印施の募集』〕
来年2020年(令和二年)摩訶般若の功徳を込めた小経本を作成し、広く布施行を
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川島 謹記
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川島徳慈しるす

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳粥

  • 2019.09.08 Sunday
  • 08:00

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳粥


≡ 玄奘三蔵と摩訶般若波羅蜜多心経の物語❻ ≡



◎観自在菩薩(大般若佛母)が現れる!


玄奘三蔵は法相の師匠たる戒賢法蔵(シーラバトラ)と邂逅した。

この出会いがなければ法相の教えが伝燈されることは無く(無いとは言えないが)

密教の付法も三国伝燈の結晶化は無かったかもしれない。

(※ 密教の基礎は「法相唯識」にあり)


ナーランダー僧院では、シーラバトラの他に、もう一人の僧侶が玄奘三蔵を

待っていた。それは彼のインド乞食病僧だ!

玄奘三蔵に「摩訶般若波羅蜜の経典」を施してくれた乞食だ。


玄奘三蔵がナーランダー僧院に着くと、

なんと!!   あの乞食僧がいるではないか。

驚いて呆然としている玄奘三蔵に、その乞食僧は、

こう言った、「我れは観世音菩薩である」と。

そう告げて、玄奘三蔵の前から姿を消したという。

かの乞食の坊主は、観音様の化身だったのである。


「摩訶般若波羅蜜」の具現化した尊格は、般若波羅蜜菩薩(般若菩薩)である。

諸菩薩たちを生み出すのは「仏母」のお役で、

仏母には、「仏眼仏母」「準提仏母」等がおられるが、

「大般若仏母」が、行者の本身たる「般若菩薩」の母なのである。

(※ 密教の「胎蔵界曼荼羅」の持明院の中央座は空位になっている。般若菩薩が

いる筈なのに描かれていない。それは行者自身が般若菩薩と化して修行することを

意味しているのである。)


行者自身は「般若菩薩」。

般若菩薩は、「大日如来」の正法輪身、教令輪身になると「不動明王」になる。


摩訶般若波羅蜜の生みの親、それを説くホトケ。

それはどなたか?

そうです! 大般若仏母であり、観自在菩薩なのです。

だから「般若心経」の冒頭が、「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時…」となるのです。

大般若仏母は観自在菩薩であり、観自在菩薩は大般若仏母なのだ!

観世音菩薩は観自在菩薩であり、観自在菩薩は観世音菩薩なのである!

すべて表裏一体。



◎玄奘三蔵の天竺での求法


玄奘は、ナーランダー僧院で観世音菩薩に会い、観世音菩薩であると同時に、

その「自在力」を目の当たりにし、観自在菩薩の功徳力を感得した。

観世音菩薩を「観世音自在菩薩」(約めて「観自在菩薩」と捉えたのだ!)

これは梵語の解析からも正しいことであった。

(※ 梵語(サンスクリット語)で観音様を「アヴァロキテーシュヴァラ」という。)


師僧のシーラバトラ(戒賢法蔵)から唯識法相、仏教の根本を学ぶ。そして、

大乗仏教・小乗仏教の経典・論書、インド医学、薬学、数学、あらゆるものを研究した。


インドの南の方に巡歴し、南のコモリン岬の手前からアジャンター石窟を通って、

再びナーランダー僧院に戻る。玄奘は中国仏教に足りないものがある、まだ佛法は

中国に完全に流伝していない。そういう駆り立てるものが玄奘にはあった。


中国に佛法が伝わって400〜500年。玄奘在世の時は六世紀。

伝わっていない経典が沢山ある。求法の学僧は、未見の諸経典を求め、それを解釈して、

衆生に伝える。玄奘の先輩の訳経僧だった、法顕や智厳(ちごん)等の凄い先輩が

いて、その功績を痛いほど分かっていたのだ。
 
玄奘三蔵は、「瑜伽師地論」を翻訳しただけでなく、当時の唯識法相の最高の学匠

だったシーラバトラから教えを受け、そこから出てきているであろう、さらに奥の

佛法の存在も予感していたに違いない。



その奥の佛法とは、密教のことなのだが、唯識には方法論(修行方法)として、

「唯識観法」というものがある。密教はそれをさらに進めて、三密具足の

「即身成仏の法」を配した。


唯識観法は、密教において発展し、胎蔵界の法、金剛界の法となって結晶化した。

この唯識観法の原初は、原始仏教の修行法である「五根法」「五力法」の中に、

見出すことができる。


玄奘三蔵は、完全に求法が終わったとは言えないが、大目的の唯識法相の大元、

「瑜伽師地論」、般若空の根本経典「大般若経典」を得た。

さあ、そろそろ故国に帰らなければならぬ。

玄奘三蔵の顔と目は東の方角を向いて眺め、心は長安に飛んでいた!

「さあ、復路への出発だ!」


(つづく)
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川島徳慈しるす

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳魁

  • 2019.09.07 Saturday
  • 08:00

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳魁


≡ 玄奘三蔵と摩訶般若波羅蜜多心経の物語❺ ≡



◎玄奘三蔵、トルファンを行く


玄奘三蔵の法旅は、いよいよ進捗してゆくのです。

莫駕延蹟(ばくがえんせき)、トルファン(高昌国)を行く。長安から凡そ1年間程で

大体此処まで来たのである。



トルファンには高昌故城(こうしょうこじょう)というものがあるが、

玄奘三蔵はこの城で『仁王般若経』の講義をした。
当時の高昌国王には、麹文泰(きくぶんたい)という王様がいた。

非常に仏教信心深い人で、玄奘が来ているということは情報を得ていた。

で、トルファン(高昌)に滞在して貰った。半ば強引だ。
 
もう此処までくると国禁を犯しての法旅ということも、通牒はされていたが、

正確には伝わっていなかった。玄奘さんという偉いお坊さんは諦めて帰朝したとか、

死んでしまったとか、いろいろな噂があった。
 
麹文泰王は、玄奘三蔵に次のように勅した。

「法師よ、天竺には行かないで、ここに留まって、この国の衆生を救ってほしい」と。

それは当然のことだと思われる。

当時の最高位に属する有徳の仏教僧が目の前にいて、その上 自分は熱心な仏教徒。


だが、玄奘三蔵は高昌国王の申し出を断る。

「私は天竺にどうしても行きたい」と。

麹文泰王は「いや、行かせない」と。

軟禁状態だ!


そこで玄奘は三日間断食した。

さすがに麹文泰王も折れた。玄奘三蔵の志の方が勝っていたわけだ。

ようするに理念が一枚上手だった。

(※ 人が生きるのに大切なのは実に「理念」だ。これなくして高まってゆくことは

できない。思考することが人間の特徴だとしても、理念がなければ粗野な人間に

なってしまう。貴方も理念について考えなさい。)


王様曰く、

「では天竺からの帰りに三年寄ってくれ」と。

それで各国の貢ぎ物を下賜し、玄奘はさらに西へ西へと進んで行く。



◎玄奘三蔵、クチャを行く


高昌国を出て数百里行くと、クチャという国に入る。

例の鳩摩羅什(くまらじゅう)の誕生した所だ。


クマーラジーヴァの父は鳩摩羅炎(くまらえん)、母は耆婆(ぎば)という方。
この二人を父母として鳩摩羅什は生まれた。
鳩摩羅什は優れた訳経官で、中国では四大訳者の一人だ。

四大訳者というのは、法顕(ほっけん)、義浄(ぎじょう)、鳩摩羅什(くまらじゅう)、

そして玄奘三蔵ということになっている。



クチャを漢字で亀茲(きじ)と云う。クチャ国=亀茲国だ。

亀茲の音楽は有名で、その民族音楽は日本の雅楽にも影響を与えているという。
当時は高度の仏教文化都市で、それ故に鳩摩羅什のような優れた訳経官を

輩出したのである。


クチャでも何らかの仏教の知識を得て、天竺をさらに目指す。

例の聳え立つ天山山脈を越える道をゆく。江戸時代日本にも箱根の関所越えというのが

ありましたが、高さも険しさも違う。箱根では「くもすけ」がでましたが、

古代のシルクロードでは本物の盗賊だ。青竜刀みたいな刀を振り回して、相手の

首を刎ねてしまう。断末魔だ。玄奘はトルファンの王様から貰った品があるから

狙われる。



◎砂の都バルカ国


トルファンの途中にペダル峠があり。これが凌山(りょうぜん)。

この辺りに、バルカ国があった。バルカとは砂の意。ようは砂の都ということ。

砂が豊富にあり、その砂を使って住居にしたりと活用していた国だった。

そのお城は「インアイマイコンシャハル(砂の城)」と呼ばれていた。



◎お釈迦様は母の国を目指した!


シルクロード旧道。この手前インダス河が流れており、乾き切った高い岩石の山道で、

この千尋の谷から落下すれば確実に御陀仏。これは法顕三蔵のルート。
法顕は三九九年に出発して此処を通った。


北インド、カイバル峠というのがアフガニスタンとの境目。カブール河とスワート河と

インダス河と三つ交流している所だ。その辺りがガンダーラー。いよいよインドに入る。
 
ガンダーラーからカシミール。それから祇園精舎のあるところ。

祇園精舎は、中天竺のサーラーヴァスティー(舎衛城)にあった寺院で、

お釈迦様が十八年説法を行ったとされる場所。仏滅の地クシナガラ。

マトゥラー、さらにナーランダー。


お釈迦様の誕生地は、いまのネパール領で、北にあるカピラヴァストゥという

居城からお母さんの摩耶夫人が、お産の為に移動。

摩耶夫人の家では、実家でお産をするのが慣わしだったので、実家に向かった。

お城と実家の中間点に、ルンビニー・花園があり、此処で摩耶夫人はお釈迦様を

お生みになった。


なので実家に戻る必要がなくなり、カピラヴァストゥへ戻って、産後7日目に

お母さんがお亡くなりになった。お母さんの妹さんも同じ夫で、浄飯王(じょうぼんのう)

すなわちシュッドーダナ王の元へ嫁いでおり、妹さんも赤ちゃんが生まれたので、

お姉さんの摩耶夫人の子にもお乳飲ませ、自分の子どもは乳母に育てさせたという。

お釈迦様の叔母さんは、とても偉かった人なのです。
 
入滅の地とクシナガラ。お釈迦様は此処で入滅された。まさに仏滅です。
このクシナガラで亡くなる時に、阿難侍者に向かって、

「頭を北に、そして顔を西に向けてくれ」と指示したと経典に記されている。

自分の頭も顔も動かせないぐらい体調は重かった。



「顔を西」にと云うから皆んなお釈迦様が、故郷のカピラ城に帰りたいと思った、

そう考えている。が、実はそうではなくて、西というと、其処から80劼阿蕕い僚蠅法

お母さんの摩耶夫人の生まれた「ラーマグラーマ」という村落がある。

きっとお釈迦様は、そこへ行きたかったのだと思う。

小高い丘で、お釈迦様のお墓が作られている。


やはり仏様でも最期の時にはお母さんを思い出す。

お母さんに支えられていたのです。仏陀釈迦牟尼ですら母を思う。
貴方たちは母に、父に、家族に「摩訶般若波羅蜜」を捧げなさい。

「摩訶般若波羅蜜」で、人生の旅が無事・無難なることを祈ってあげなさい。



 
そしてバーラナシーに行き、とうとうナーランダー寺院に到着だ!

当時の天竺 仏教総本山で、玄奘三蔵は名僧・尸羅跋陀羅(シーラバトラ)に出会う。

中国名は、戒賢法蔵。この僧は、玄奘到着の3年程前からリューマチを患っており、

あまりの苦しさに人生を諦めようかと思っていた。



伴僧が「中国の偉い僧が天竺に向かって歩いている。三年後には着くから」と。

戒賢法蔵(シーラバトラ)が玄奘三蔵の師僧にあたる人である。
 
そして玄奘三蔵を待つ僧侶が、もう一人いた!?

果たして・・・。


(つづく)

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川島 謹記

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川島徳慈しるす

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳押

  • 2019.09.06 Friday
  • 08:00

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳押


≡ 玄奘三蔵と摩訶般若波羅蜜多心経の物語❹ ≡



◎まさしく乞食僧は観音菩薩である!


何人かの読者から、玄奘三蔵に「般若心経」施経した乞食は、

観音菩薩なのではないか?  というお便りを頂いた。

まさにである。その通り、観音菩薩だったのである!


摩訶般若波羅蜜多心経の経題の次にくるのは、

「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 ・・・」である。

これは玄奘三蔵訳の般若心経だ。


玄奘三蔵が大法旅の途中で読誦していたのは、鳩摩羅什訳の「摩訶般若波羅蜜大明呪経」

である。この経典の、観自在菩薩ではなく「観世音菩薩」となっている。

いわゆる観音様である。


観音様の救いと、大法旅の成就体験を以って、玄奘三蔵は「観自在菩薩」

と訳した。何故だろうか?

その話をする前に、乞食と玄奘の話を詳しくしたいと思う。


玄奘が、益州の空恵寺にいた時、インドの乞食僧が病気で苦しんでいた。

その乞食の坊さんを玄奘は看病してあげた。

このインド乞食僧は、玄奘が砂漠を越えて天竺に仏教教典を得るという志を持っている
ことを知ると、一巻の経典を施経した。それが摩訶般若波羅蜜の大明呪経だった。

そう!いわゆる「摩訶般若波羅蜜多心経」の前身、鳩摩羅什訳の般若心経だ。

乞食の僧は、

「これを唱えてゆけば、災厄にもあわず、病気にもかからない」と言った。

そして その通りになった。砂漠の絶対絶命の危機を回避したのだ!

その後の困難も全ては克服した。実はこの乞食僧との因縁はまだあるのだが、

それはまた出てくる。

しかし、この乞食の坊さんが観音菩薩の化身であったことは事実であった。


玄奘三蔵は、あの広大な、遠い遠い、まったく気が遠くなるほど遠い砂漠の道を
ガテー、ガテー、パーラガテー、バーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー
と、般若心経を唱えながら進んで行った。


自分の前に荒涼とした砂漠があって、誰も助けてくれない、

そういう絶体絶命の大ピンチを想像して、摩訶般若波羅蜜多心経を玄奘三蔵に

なって唱えてごらんなさい。


あなたは「観世音菩薩」「観自在菩薩」の念彼観音力を感じるであろう。

人生は砂漠であると同時に極楽です。人々、一切衆生が菩薩に見えるであろう。



◎鳩摩羅什の経訳


鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)

344年 - 413年在世。一説に350年 - 409年とある)

亀茲国(きじこく)新疆ウイグル自治区クチャ県辺りの出身の西域僧。

後秦の時代に長安に来て約300巻の仏典を漢訳し、仏教普及に貢献した訳経僧。

最初の三蔵法師。鳩摩羅什は玄奘と共に二大訳聖と言われる。三論宗・成実宗の基礎を築く。

鳩摩羅什訳の経論は、

仏説阿弥陀経、坐禅三昧経、摩訶般若波羅蜜経(27巻(30巻))、妙法蓮華経、
維摩経、大智度論、中論 など。
大胆な創作や意訳の疑いが指摘されるが、羅什の翻訳によって後代の仏教界に

与えた影響は計り知れず、玄奘三蔵による訳経を「新訳」と呼び、

鳩摩羅什の訳経を「旧訳」という。それ以前は「古訳」という。


◎鳩摩羅什の摩訶般若波羅蜜大明呪経

『般若心経』と言えば玄奘三蔵訳。

ですがここでは鳩摩羅什の訳した般若心経を示しましょう。
鳩摩羅什は、この経典のタイトルを『摩訶般若波羅蜜大明呪経』としました。

サンスクリット語の般若心経には、タイトルがついていないので、

経題は漢訳した人がつけます。

摩訶般若波羅蜜大明呪経  
観世音菩薩。行深般若波羅蜜時。照見五陰空。度一切苦厄。

舎利弗。色空故無悩壊相。受空故無受相。想空故無知相。

行空故無作相。識空故無覚相。何以故。舎利弗。非色異空。

非空異色。色即是空。空即是色。受想行識亦如是。舎利弗。

是諸法空相。不生不滅。不垢不淨。不増不減。是空法。

非過去非未來非現在。是故空中。無色無受想行識。

無眼耳鼻舌身意。無色声香味觸触法。無眼界乃至無意識界。

無無明亦無無明尽。乃至無老死無老死尽。無苦集滅道。

無智亦無得。以無所得故。菩薩依般若波羅蜜故。心無罣礙。

無罣礙故無有恐怖。離一切顛倒夢想苦悩。究竟涅槃。

三世諸仏依般若波羅蜜故。得阿耨多羅三藐三菩提。

故知般若波羅蜜是大明呪。無上明呪。無等等明呪。

能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜呪即説呪曰。
竭帝竭帝 波羅竭帝 波羅僧竭帝 菩提僧莎呵
摩訶般若波羅蜜大明呪経


(つづく)

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密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳院

  • 2019.09.05 Thursday
  • 08:00

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳院


≡ 玄奘三蔵と摩訶般若波羅蜜多心経の物語❸ ≡



◎赤馬で助かる!!


砂漠の前で独りになる。絶体絶命の玄奘三蔵。

玉門関で遂に孤独の法旅となった。この近くで有名なのは関所は陽関(ようかん)。
さらに荒涼とした砂漠が広がっている。
 
生えている植物と言えば、ラクダ草、積々草(せきせきそう)、紅柳(タマリスク)の三種類

ぐらいしかない。ラクダ草というのは、砂漠の舟の異名を持つラクダしか食べられない。

ラクダが荒涼とした砂漠を通る、そこにラクダ草生えているというのもまったく不思議だ。



 
玄奘はその大砂漠を行った。これにはおもしろい噺がある。彼の石盤陀と入っていく時に、

若馬を買い、一緒に同道していた老翁が、

「三蔵法師さま、そんな若馬では無理ですよ」と言った。さらに、

「私のこの馬は伊吾(ハミ)まで十五回も往復しています。大変丈夫で、しかも道を

よく知っています。私の馬に乗ってください」と。


それはやせた年寄りの赤馬であった。鞍には鉄のついた漆鞍であった。

で、「換えましょう」というわけ。何故かくも簡単に換えたのか?

それには伏線があって、玄奘が長安にいた時分に、

「自分は天竺に行けるか」と易占の占い師に観てもらった。

すると「あなたは年取った赤い馬に乗っていますよ。漆塗りの鞍を載せていますよ」と。


その赤馬を見たらその通りだった、それで換えたというお話。

その老赤馬に乗って天竺に向かうことになった。馬は相当なベテランだ。

砂漠なんかは経験値とか勘がモノをいう。この赤馬に命運を託した。


その時、玄奘は佛菩薩、ご神霊に固く誓ったという。

「私は、いかなることがあろうとも西天の方角 天竺へと向かいます。

帰国するときまでは決して東方には向きません。ゆえをもって、どうか神仏の加護を

お願い致します」と。


途中、五つ烽火台(のろしだい)があり、その4番目で水を汲んで革袋に、

千里行っても充分な水を積む。ところが慎重な玄奘も、ここでミスをおかした。


玄奘は此処で、やっぱり水は二つに分けるべきだと思った。百里以上進んだ所で、

水を飲もうとした。ところが水袋が重すぎてバランスを崩して地上に落下、

大切な命の水が全部ゴビ砂漠に流れて消えてしまった。


命の水を失ったので、水を汲みに東に戻ろうとしたが、すでに誓願を立てている。

「西方に行くからご加護してくれ」と神仏に頼んだ。そこでまさに仁王立ち。

だが西に突き進んだ。赤馬に任せて。玄奘は西へ西へと向かうが、四晩五日まったく

水なし。それで砂の上へ倒れた。赤馬も一緒に倒れた。万事休すだ。



朝方なると涼しい風が吹くので、馬は立つ。玄奘三蔵も立ちあがる。

それでまた西に向かって暫く進んだが、赤馬が玄奘の指示に従わず違った道を

進んで行った。止めようとしても進む。すると、突然、広い草原に出た。

やっぱりベテランの馬の感覚(勘・経験値)はモノをいった。


玄奘三蔵は、まるで夢を見ているようだった。

馬から降りて、十歩ほど歩いて戻ったところに水が湧いていた!!

その水を飲んで玄奘も馬も助かった。




◎乞食が「般若心経」を施経してくれた!


道の無い砂漠。時折ある草以外に何もない。玄奘は水なしで、ここを歩いて倒れた時に、

神仏に祈願するために「般若心経」を読んだ!!

後に、般若経典の護法神となる「深沙大将(じんさだいしょう)」が玄奘三蔵の霊夢に

出てきたのは、この時のことです。

どうですか、読者の皆さん感動的でしょう(笑)


それに連なる話がある。

成都にいた時に街に病気の乞食(こつじき)がいて、その人を皆避けて通っていた。

その人に玄奘は薬を与え施しをする。

そしてそのお乞食が「私が大切に持っているお経をあげます」と言ってくれたのが

その般若心経だった。


その般若心経は、玄奘三蔵在世の300年前に活躍していた訳経官・鳩摩羅什(くまらじゅう)

が訳した般若心経だったのである。鳩摩羅什はクマーラジーヴァの音写である。
玄奘三蔵は、その経本を法旅の途中で始終読誦していたと思われる。


繰り返し、繰り返し、

「タッディヤター ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボディースワーハー」と。



◎すべての衆生を大切にせよ!
 
玄奘三蔵は独り砂漠を彷徨い、仮死寸前のところまでいった。そして九死に一生を得た。
おそらく其処は神々峡(しんしんきょう)だと言われている。この辺りには豊富な水脈があり、

湧き水が勢いよく流れている。湧き水が噴き出しているのだ。


神々峡から下をずっと向こうを見ると伊吾(いご)の町見え、前方に天山山脈がある。

此処で玄奘は自分の行く道が間違いないと確信したであろう。天竺への道だ。

しばしほっとされ感謝の般若心経を、声高々にお唱えした筈だ。



 
この辺りから目的地の天竺・ナーランダー寺院に着いたのは、さらに3〜4年かかった

といわれている。


玄奘三蔵は、赤馬と深沙大将(沙悟浄)の助力を得て、護られ窮地を脱したのだった。

玄奘三蔵の真の守護尊は誰か?

赤馬・深沙大将・般若心経を遣わした、その御方は誰か?

あなたはどう考えますか?


その答えは、観世音大菩薩さまです。観音様です。

救いを求める時には、観世音大菩薩さま という。

自分が修行し、施す時には観自在になって「般若の智慧」を得て、

観世音となって救いを垂れる。


観世音と訳したのは、鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)三蔵法師。

観自在と訳したのは、玄奘三蔵。

「摩訶般若波羅蜜多心経」を読誦して、真のホトケの道を行くものは、

この法恩を深く慮りなさい。


あなたは「南無観世音菩薩」とお唱えしなさい。

身の回りすべてがマンダラ諸尊の一員となる。

馬や動物は人と共にあり、よく助けてくれる。

神霊、動物共に大切にせよ!

摩訶般若波羅蜜の奇跡的霊験は、人と神霊、動物問わず機能する。

周囲をマンダラと化すのだ。

般若心経をお唱えする者は、すべての衆生を大切にしなさい。
(つづく)

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密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳亜

  • 2019.09.04 Wednesday
  • 08:00

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳亜


≡ 玄奘三蔵と摩訶般若波羅蜜多心経の物語❷ ≡



◎16年間の法旅の道すじ


鄭善果の引き立てを受けた玄奘三蔵。

試験に合格して僧侶の作法から摂大乗論などの佛学まで詳しく学んだ。

では、天竺(インド)への法旅に出たのは何歳の時か。

それは入門して13カ年が経った歳、すなわち玄奘26歳頃のことだった。
玄奘三蔵が天竺への法旅をスタートしたのが26歳。帰朝したのが43歳。

実に16年間にわたる大法旅だ。

玄奘は、偃師(えんし)県 洛陽にお生まれになり、兄の僧と一緒に浄土寺で住んでいたが、

後に長安のほうに行った。唐代の初頭は治安が悪かったので、四川省の成都(せいと)に

隠れて、治安が安定してから長安に。さらに長安から赤い道をずっと安西(あんせい)まで

行き、玄奘は北道ルートを行った。


この辺りをクチャと言い、アクス―ウチトルファン、天山(てんざん)の山脈を越え、

現在のキルギスタン、ウズベキスタン、アフガニスタン、カイバル峠を抜けて、パキスタン、

ここから北インド。こういうルートで入印した。
 
そして北インドからガンダーラ(ペルシャ)、此処からは完全に天竺国。先ずカシミール。

玄奘は、はじめに仏蹟の参拝し、ナーランダー寺院に到着。仏教の修学に励む。後に

南インドに行き、またナーランダーに戻り、帰路は天山南路を通って中国に帰朝。


◎ナーランダー寺院までの砂漠の受難


三蔵法師の行き先はナーランダー寺院。当時インド最大の仏教寺院です。

インド最大ということは全仏教の総本山ということで、1万人程の僧侶が仏教大学で

勉強していたという。
 
出発してから再び戻るまで十六年間。
乗り物は馬、駱駝、徒歩です。まず長安を出発して、馬で河西回廊(かせいかいろう)を通る、

黄河(こうが)の西を行く。当時は治安が悪く、国外旅行禁止だった。


しかし玄奘は佛法・衆生の為だと、国禁を犯して出発した。

はじめは昼間歩いていたが、「玄奘という僧侶が向かっているから捕まえて断罪せよ」

という通牒がまわり、仕方なく夜中に歩いたという。安西(あんせい)というところまで来て、

そこで乗ってきた馬が死ぬ。後ろからは追っ手が迫る。


玄奘には、小僧(身のまわりの世話童)が二人付いていたが、一人は敦煌(とんこう)に行って、

もう一人は体が虚弱だった。それでは、旅に連れていくわけにはいかないので、

二人の小僧を涼州に帰らせ、玄奘はもう後は前にある大砂漠に突き進むしかないという

ことになった。はじめの大ピンチです。


で、馬を一頭買った。若駒です。石盤陀(せきばんだ)という男を馬子(まご)にし、

それで玉門関(ぎょくもんかん)という関所跡、ここを避けて通った。時代によって変遷が

あるが、当時は玉門関の向こう側に瓠蘆(ころ)河という川が流れており、玄奘はそこを

行って避けたようである。
 
関所が要所要所にいくつかもあり、陽関(ようかん)も有名な関所であった。

仮にそこで捕まってしまったら、馬子の石盤陀(せきばんだ)でも殺されるわけですから、

途中で心情が変わって、玄奘さんを斬り殺そうと夜中に襲いに行った。

私(石盤陀)はもう行きたくない。王法を破りたくない。家族もあるんだ、ということで

脱落。玄奘は「では、行きたくなかったら私一人でも行こう」と、引き止めなかった。

それでとうとう一人でいくことになった。
 
玄奘三蔵は砂漠の中で孤独になった。

荒涼とした砂漠を前に何を思うたのか。絶体絶命だ!

(つづく)


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〔『摩訶般若波羅蜜多心経 小経本 印施の募集』〕
来年2020年(令和二年)摩訶般若の功徳を込めた小経本を作成し、広く布施行を
おこないたいと思います。ご協力頂ける方を募集します。詳細は後日発表します。
kawashima.seitai@gmail.com までご連絡を。
川島 謹記
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川島徳慈しるす

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