【神ならう道 大司命節の大恩頼㊿】感謝!最終話「神ならう道も新時代へ」

  • 2020.11.19 Thursday
  • 00:00

【神ならう道 大司命節の大恩頼㊿】感謝 感謝!


最終話「神ならう道も新時代へ」



◎神ならう道も新時代へ


今回の大司命節の裁定による現象ははっきり出ていました。

様々な出来事が現出していました。11月7日〜9日の出来事はそれを証明しています。

新型コロナ感染も拡大しています。この問題は、冬期〜春期がヤマ場でしょう。

大問題は、お正月の皇居での天皇陛下一般参賀が見送りになった事です。


これは事態が大変なことである示唆を含んでいます。

春過ぎにはワクチンが出てきて問題の収束が見えてくるでしょうけれども…。


先般 久しぶりに電車に乗りました。空いていましたが、人々の立ち居振舞いに恐さを

感じました。乗車している人々は、半分 新型コロナ感染を忘れているのです。

どこかに緩みがある。まあ現在は感染拡大の報道がなされていますので、シメに入って

いると思いますが…。


先述の通り、令和3年の春季が一つの区切りになるでしょう。これは日本のことです。

その前に相当な感染拡大があると考えます。すでに始まっている第三次感染拡大です。


新型コロナ感染症の後遺症的ダメージはすべて解明されているわけではありません。

イギリスの最新の研究では120種類の後遺症があるそうです。例えば脳幹の機能が

乱れて体温調整がうまく行かなくなるなど。


宗教、芸能、スポーツ等、とにかく人を集める、人が集まるそういうものに関しては

新型コロナがおさまっても、当分 運営状況が戻ることはないでしょう。

観光旅行・飲食業、各種イベント業は大打撃で、消えてしまうところもあるでしょう。

特に北海道のダメージは相当なものになるでしょう。ここは全国民の協力で支えてゆく

必要があります。地方の打撃も必至で、立ち直りに時間がかかる。


「神ならう道」も更に新時代へと進んでゆきます。

遠隔の観音祈願会と同様に、各自の「遠隔・念力疎通」が主体になってゆく。

各自が霊的な直接的連結(むすび)をしてゆくのです。特定の人間、誰々先生とか言うのでは

なく、直接的に各自が霊界からの傳えを頂いてゆく。霊界参入してゆく。


手掛りは、天津日嗣への理解と産土神参詣の実践です。そのために理解するべき要点がある。

次回のシリーズでは、そのことを明らかにして行こうと思います。



◎「天津日嗣の教え」と「禊ぎ」による霊性開発


真のミソギを行うこと。これは日本に付託された神の教えとして瞠目すべきものです。

滝行などの苦行・荒行的なことをお勧めしているのではありません。


ミソギの要旨は「霊注ぎ(みそそぎ)」「耳そそぎ(みそぎ)」、「身削ぎ(みそぎ)」にあります。

あるいは「水灌ぎ(みそぎ)」です。すべて実は一つです。

「身削ぎ(みそぎ)」には「食の教え」もあり、「斬三尸」の削ぎも入っています。

このような「真のミソギ」を成してこそ、大神様につながる土台が出来あがります。

ですが、以下の教えを忘れていたり、知らなければ、すべてが無意味になります。


昨日の記事です。再度あげましょう。

「◎火の神、竃の神を祀る
家内の祭祀の秘訣として、竃神、火の神を斎き祀るということがある。密教のほうでも
三宝荒神という事を言います。
産土の神も、竃の神も火の監察というお役目があり、つまるところ火の管理です。
火は霊に通じさらに日に通じます。幽玄な教えはここに存します。つまるところ真実の
天津霊(天津火)は「天皇」という存在に帰します。
火には正神もやどりますが、禍神や邪神が感げることしばしばあります。仙人は煮炊きした
ものは食べず、高位の大神仙 清浄利仙全君は、弟子の清玉異人が現界からもたらした菓子
を口にしなかったのは、現界の火に穢れあるを忌むゆえんであったのです。
「天津火嗣(天津日嗣 あまつひつぎ)」は「天皇陛下なり」。

この一事を神ならう道を行く修道の士は忘れぬように。これは右翼思想ではありません。

霊学の実際、その真相に真ん中を述べているのです。産土神もこれを守る為に組織されている

ということです」

と。


天津日嗣ぎの 眞盛りは 天地常磐 御無からんものぞ

(あまつひつぎの みさかりは あめつちときわ みなからんものそ)


天津玄火嗣福壽皇無量

(あまつひつぎのふくじゅこうむりょう)


50日間にわたり「神ならう道 大司命節の大恩頼」をお読みいただきありがとうございました。

次回からは「新シリーズ」が始まる予定です!

諸氏の御健康をお祈りします。


では天神地祇諸仙万霊を念祷してまいりましょう。

合掌


花角有仙 川島徳慈 記す


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引用は自由ですが、引用する際は必ず著者の承諾を得ること。
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【神ならう道 大司命節の大恩頼㊾】宮地師仙の「仙人食物篇」

  • 2020.11.18 Wednesday
  • 00:00

【神ならう道 大司命節の大恩頼㊾】次回 最終話


宮地師仙の「仙人食物篇」



◎運という角度からの食


光格天皇から「日本観相中興の祖」の号を賜ったのが水野南北居士である。いろいろな経緯

で観相家になり、その過程で「食による不思議な開運法」をつかんだ。「南北相法修身録」

に明らかである。


食を減らすことで開運するというのは不思議な教えであるが、どういう理由で

陰徳が積めるのか考えてみると、食は命を養うものであるから、これを他に廻らせるように

減らすと、一番の布施になる。道義的にも他者にその分が廻るということで陰徳になる。


神仙の教えからすると、七魄を養うのが通常の食ということになるのではないか?

七魄というのは人間の寿算を削るのをよろこびとしている「三尸」という鬼族類の

わいてくる元である。三尸の働きを制するというのは、七魄を対象にしていると

いうことである。この七魄の向こうに「陰魔」というのがいて、これは相当やらないと

出てこない。この時に「護身秘辞」が必要になる。このことは諸賢はご存知だと思う。


「斬三尸」も大切だが、日常の食を考える必要がある。

まずは「玄米七号食」「一日断食」などが事始めだと思う。

◎開運「玄米七号食」


「玄米七号食」で開運するとは夙に知られている。

玄米食といえば、軍医で近代食養生の石塚左玄医師。この方の「化学的食養長寿論」は、

この分野の古典的名著だ。更に桜沢如一氏のマクロビ。玄米七号食はここから出てきて

いる。ちなみに8号食というものがあり、これは断食というふうになってゆく。


快楽食が1号食〜3号食で、通常我々が食べている白米銀シャリ食。

4号食から玄米食になる。4号食が一汁二菜、5号食が一汁一菜。

6号食が玄米食に味噌汁・漬物。7号食が玄米ごはんのみ。

マクロビの創始者 桜沢如一氏は、7号食について

「健康で幸福な人生を確立する食事には段階があり、

7号食が最も容易で賢明で最上である」と。


推奨されているのが「寝かせ玄米」で、これは炊いてから3〜4間寝かせればよい。

圧力鍋で、玄米・小豆・塩を炊く。

ごま塩はよい。ごま塩はすりゴマがよい。でも両方用意しておくと飽きがこない。

飲み物は、水かほうじ茶、番茶、麦茶。

どうしても食べられない場合は、梅干し、玄米甘酒は可。

その他は不可ず。



◎奇跡が起こる半日断食


甲田医院院長の甲田光雄医師が提唱している「半日断食」あるいは「一日断食」。

断食、これは様々な病を治す最高の健康法だという。身体に無理がないのが

「半日断食」であり、一つ効用を挙げると「自己融解を起こす」ということがある。


甲田医師の著書から引用する。

「…断食が体にもたらす変化の中でも特筆すべきことが、自己融解です。

断食によっていっさいの栄養分が断たれると、体はどこからか栄養分になるものを

探し始めます。体の細胞が勝手にエサ探しを始めるというわけです。

さしあたって、生命維持に絶対必要なもの以外の組織から栄養分をとり入れて、

エネルギーに変えます。これを「自己融解」といいます。…」


例えば、動脈硬化症の人が断食をする。動脈硬化の場合、血管内にアテロームという

言わばコレステロール沈着物のお粥状塊が形成され、血管の中を狭くしている。

これで血液の流れが悪くなっている。こういう人が断食すると、このアテロームを

エネルギー源として利用し、無くなってゆきます。最後にはきれいになると言います。

こういう現象を「自己融解」というのです。


私はこの現象は運命学的には「開運」であり、玄学的には「七魄三尸へのアプローチ」

だと考えています。



◎ルイジ・コルナロ著「無病法」


ルイジ・コルナロは、1464年〜1566年に生きた、ルネサンス期のイタリア貴族である。

ヴェネツィア共和国パドヴァ市の行政長官を務めた。人生の中年期に医師より節食生活を

始め病気を克服した。102歳の長寿をまっとうした。


彼の講義録は西欧では超有名で、日本では知られていなかった。

彼が在世していた当時、その講話は夙に知られて、名はダ・ヴィンチやミケランジェロ

より有名であった。今日的にはダ・ヴィンチを知らない者はいないが、その昔は

ルイジ・コルナロを知らない者は無かった。


欧米では、「節制の生活」「健康長寿法」「100歳を超えて生きる法」などの題名で

刊行されているが、日本では2012年6月「無病法 極少食の威力」がPHP研究所から

発刊されている。ルイジ・コルナロ著、中倉玄喜 編訳・解説 となっている。


ルイジ・コルナロの謦咳に接してみよう!

「…しかしながら、節食のこうした優れた効果を真によく知っている者は、きわめて少ない。

世のほとんどの者たちは、食欲に振りまわされ、知らずして過食におちいっている。また、

そのことに気づいている者たちにしても、「我慢して長く生きるより、短くても好きなよう

に生きる方がよい」などと言い訳をしている。食欲を律すると、いかに幸福な生活を送る

ことができるかを、かれらは知らないのだ。

私はこれを発見した。そしてこの生活をつづけ、長く生き、世の中に役に立ちたいと願って

いる。もし私がこれまで食を慎んでこなかったなら、このような、人々のためになり、

またそれゆえに私の喜びでもある、こうした書き物をすることもなかったことだろう。」



◎師仙の「仙人食物篇」とチューレンの法


宮地水位大霊寿真の著作に「仙人食物篇」がある。「正しくは仙人服餌編と云ふべき」

と述べておられる。「上は仙人の霊芝草木薬石を食ひ、下は人間の五穀を食ふも、

之れ皆性命を長久に繋がむが為なり」と言われ、

成仙のこととて、

「…仙人とならむとせば、飲食を節にするを以て要路とし、漸々穀物を減少して、

仙人の食物を以て之れを食し、元気を総身に充満せしむべし。穀物を食へば身重く、

遂に仙旨を果す事あたはざれば、仙を学ぶものは、古より飲食の節度を量り、元気の

穀物に勝つ本として、加ふるに、房中の節度を極めて守り、漸々と仙人の食物に遷り、

身体軽便にして一と先づ仙人の体に至れば、元気一身に満ち溢るるなり」と。


宮地師仙は「神僊鎌服雲母秘訣」を引き、

「青雲母を春服すれば寿四千年を増し、赤雲母を夏服すれば寿三千年を増す、黄雲母を

夏服すれば寿二千年を増し、白雲母を秋服すれば寿一千年を増す、黒雲母を冬服すれば

寿五千年を増すと云ひ、…」と記し雲母の用法を詳細に書いておられる。


西蔵密教(チベット)では、長寿の薬方、修行として「チューレン」がある。最後には

呼吸だけで体に必要な成分を(光りで)摂るわけだが、最初はチューレン丸薬を摂取する。

当然、この丸薬には鉱物がある製法で練りこまれており、雲母の用法に通底するものを

感じている。


以前に私は、
「延命十句観音経の大功徳(53)「仏法僧縁 常楽我浄」❾」延命という観点から◆峅翔繊

で、チューレンについて次のように述べている。
「……

◎チベットのチューレン
チベット医学の「チューレン(bcud len)」は一種の延命の功徳薬だと思う。チューレンにも

世俗的な理由と、勝義諦的な理由がある。イェシェー・ドゥンデン先生の「チベット医学 

身体のとらえ方と診断・治療」から引用してみよう。
『医典はチューレン薬について、その「効能」、薬に関連して行なうべき「儀式」、
「儀式を行なう場所」、「基盤(儀式をとり行なう人の体)」の四つの観点から説明して
います。チューレン薬の摂取も含む儀式をとり行なうことの効能は、長寿を得られること、
若返り、老化の防止です。』
老人は三体液のうちの「ルン」が優勢になるので、六十歳近くになったら、強まるルンを
克服する術を利用しなければいけない。その方法は食物の摂取の内容である。
チューレンは儀式を伴う。それは人里離れた場所がよい。土地神の供養、それは「サン(柴燈

護摩供)・セルキェム(二段供養杯)」を行なうことである。チューレン薬の作り方としては、

指定された成分を煮詰めて、成分が変化するまでやり、砂糖・乾燥蜂蜜などを加えて完成。

丸めて丸薬にする。儀式の要は、観想とマントラ念誦で、自分自身を本尊として生起し、

薬は本尊の光りに溶け込んで、甘露の丸薬に変化する。
さらにイェシェー・ドゥンデン先生の言葉です。
『チベットでこの行に成功した人は枚挙にいとまありません。老いても再び若さを取り戻し、
百三十歳か百五十歳まで生きることができるのです。』
『マチク・ラプドゥンの転生者であった女性は百八十歳まで生きました。彼女が亡くなって
まだ二十五年しかたっていません。彼女は食物がわりにチューレン薬をとっていました。』
私もラマから「チューレン」エキスの煮詰めたジャム状のもの頂いて所持していますが、
それはジャムの瓶ほどの分量であり、たくさん摂取することはできません。但し、
その製法は知っています。方解石・ヒノキなど…。水は3000m以上の山から採ってきた
「雪」を使うのです。幾つもの成分を煮詰めるのですが、雪が手に入らない。いずれ
コロナが終息(収束)したら、彼の地に行って大量生産できるようにしたいという夢も
あります。できれば、「延命十句観音経」「葉衣観音マントラ」の功徳を込めた丸薬を
サプリとしてお分けしたいわけです。…… 」

と。


凡俗・在家の者が修行可能な「簡易チューレンの法」を既に私は工夫して開発しています。

この方法は光りを吸収する秘伝です。サマヤなどの密教的制約はありません。


◎火の神、竃の神を祀る


家内の祭祀の秘訣として、竃神、火の神を斎き祀るということがある。密教のほうでも

三宝荒神という事を言います。


産土の神も、竃の神も火の監察というお役目があり、つまるところ火の管理です。

火は霊に通じさらに日に通じます。幽玄な教えはここに存します。つまるところ真実の

天津霊(天津火)は「天皇」という存在に帰します。


火には正神もやどりますが、禍神や邪神が感げることしばしばあります。仙人は煮炊きした

ものは食べず、高位の大神仙 清浄利仙全君は、弟子の清玉異人が現界からもたらした菓子

を口にしなかったのは、現界の火に穢れあるを忌むゆえんであったのです。


「天津火嗣(あまつひつぎ)」は「天皇陛下なり」。この一事を神ならう道を行く修道の士は

忘れぬように。これは右翼思想ではありません。霊学の実際、その真相に真ん中を述べて

いるのです。産土神もこれを守る為に組織されているということです。


火を守り、食を節すること。これ神の教えです。

「仙を学ぶ者は飲食の節度を量る」というこの師仙の玉言を忘るべからず。

「火の教え・水の教え」「食の教え」の無い「道」は古今東西ありません。


【神ならう道 大司命節の大恩頼】も明日が最終話です。

では天神地祇諸仙万霊を念じてゆきましょう。


川島徳慈 記す

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【神ならう道 大司命節の大恩頼㊽】寿人を見習って霊活する

  • 2020.11.17 Tuesday
  • 00:00

【神ならう道 大司命節の大恩頼㊽】


寿人を見習って霊活する



◎河野至道寿人の祝詞に学ぶ


以下にかの有名な仙人 河野久(河野至道寿人)の祝詞を掲載する。


祝詞

「天照御大神の大前に。慎み敬ひ恐み恐みも。拝み奉りて白さく。皇が大御代を。

堅磐に常盤に依し奉り。親王等を始め奉り。卿等百も官人等を。守り慈み給ひ。

平く大朝廷に令事奉らしめ。四方の黎民。次に吾等が親族家族に至る迄。守り給ひ。

四方の國を照らし座して。萬の物を。成り幸はへ給ふ故に。産業勤めて。異しき事。

邪しき教へに。相率はり。相口会ふ事無く。禍神の禍事無き悦びを恐み恐みも白す。

又 正しき直き清き心を持ちて。此の献まつる御酒御備を。平く安らけく聞召して敬ひ。

矜とむ道の。功績成り終えて。己れが魂の。其の行く末は。隠る事知ろ看めす道の。

御祖二柱大神。又 産土神等。事取り給ひて。天に上ぼり。天皇祖三柱大神。大壽神等

の連なひ給ふ。天津眞北の大宮に。遠長く。美しく。令事奉らしめ給へ。依て諸々の

奢りに離れ。色情けに離れ。百の穀物。百の膻腥。百の畑物。甘菜辛菜。是れを生涯の。

絶物として。精を愛し。神を養ひ。慎み敬ひ恐み恐みも。希み奉らくと白す。」


まあ通常の祝詞と変わりのないものですが、読み進めますと、これは通常の人が作した

ものではないことが分かります。とても凡俗の我々が奏上できるものではない。

この祝詞は仙人でなければ御神前で奏することは不可能でしょうね。


特異な点をあげてみましょう。


「天皇祖三柱大神。大壽神等の連なひ給ふ。天津眞北の大宮に。遠長く。美しく。

令事奉らしめ給へ」

(あまつみおや みはしらのおほかみ だいじゅしんたちの つらなひたなふ あまつまきたの

おおみやに とほながく うつくしく つかへまつらしめたまへ)


この方の師仙は山中照道大壽神。明治の世にあって吉野山中にて昇天した神仙である。

どこに昇天したのかというと、天津眞北という神界だというのである。大宮とあるから

その天津眞北には大きな宮があるということだ。仙人 河野久は、師仙からその大宮に

行くんだと聞かされていたのであろう。当然、仙人にも「地仙」「天仙」と階品の違いが

あるということも。神界の実在をこういう祝詞で表現し得る人がいるであろうか?


「依て諸々の奢りに離れ。色情けに離れ。百の穀物。百の膻腥。百の畑物。甘菜辛菜。是れ

を生涯の。絶物として。精を愛し。神を養ひ。慎み敬ひ恐み恐みも。希み奉らくと白す。」

(よりて もろもろのおごりにはなれ いろなさけにはなれ もものたなつもの もものまなぐさ

もものはたもの あまなからな これをいくるかぎりのたちものとして せいをあいし しんを

やしなひ つつしみいやまひ かしこみかしこみも のみまつらくとまをす)


奢り、色情けを離れる。これは分かる。だが次の一文が、我々凡俗とは次元が違うことを

投げかけてくる。百の穀物、生もの、畑の作物、甘菜・辛菜、これらを生きる限り(生涯)

の絶ち物とする。その上で精を守り愛し、神(こころ)を修養する。この人は一体何を食べて

生きているでしょう?

これを御神前で大神様にお誓い奏上するのです。

あなたはこの祝詞を大神様に奏上できますか?


これを御神前で奏上して、井村屋のあずきバー食べたり、あんまん食べたりは出来ない

のです。夏にビールもダメです。おさしみ頂くのもダメ。そもそも穀物がダメ。白米なんか

とんでもない。


河野久仙人は、吉野葛を食していたといいます。

仙人というのですから、当然「七魄三尸」は知っておられたでしょう。その証拠が先の

祝詞です。あらゆる食を絶ち、精神を修養し、精を愛し漏らさず。「言うは易し 行うは

難し」です。


この「祝詞」を生涯の中でお唱えできるようになったら、その人は仙人です。

私の知る人で、感覚的に近い同志がいます。その人も何を食べているのか分からない

ような人ですが、「仙人は葉っぱの上の夜露を飲んだりする」みたいなことを云う

のです。

ようするにお唱えすることは出来ても、実行は難しい。普通の人が食すものを

「生涯の絶物」と大神様に奏上するわけです。普通の人ではこんなことは一生できない

でしょう。河野久仙人がいかに非凡か分かるでしょう。



◎産土神の働きに適う霊活


河野久仙人は、

「己れが魂の。其の行く末は。隠る事知ろ看めす道の。御祖二柱大神。又 産土神等

事取り給ひて。」と敬白されている。

おのれがたましひの、その行く末は、かくること知ろしめす道。要するに今だけではなく

死後の行く末も知る道だと。

御祖二柱の大神というのはイザナギ・イザナミの大神。そして「産土神等」と。

事取り給ひて、とこう続く。やはりですね、産土神と師仙なのです。


産土神、司命神の意にかなう道、そのような生活。仙人 河野久は我々に明確に示唆された。

「霊止(ヒト)」における「火」と「水」の働き、この問題なのです。


「祓ひ清め」生活。

「諸悪莫作 衆善奉行」の指針。

まだまだ私たちは勉強・研究、実践・祈りが足りません。


では、天神地祇諸仙萬霊幸ひ給へと念じて、質素な陽気暮らしとまいりましょう。


川島徳慈 記す

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【神ならう道 大司命節の大恩頼㊼】運命の原理を示す十二宮

  • 2020.11.16 Monday
  • 00:00

【神ならう道 大司命節の大恩頼㊼】


運命の原理を示す十二宮



◎運命の定めと十二宮


運命学における十二宮というのは、十二支と人相の十二宮、西洋占星術の十二宮などある。

西洋占星術の十二宮は、白羊・金牛・双子(そうし)・巨蟹(きょかい)・獅子(しし)・処女・

天秤(てんびん)・天蝎(てんかつ)・人馬・磨羯(まかつ)・宝瓶(ほうへい)・双魚(そうぎょ)

の十二宮です。


人相の十二宮。十二宮相法は、

〔慎棔覆瓩いゅう)両眉の間。聡明さ福運、宿命、寿命、富貴貧賤など運気全般
∈瞞腟棔覆兇い呂きゅう)鼻全体。財運、社会運
7残鏥棔覆韻い討いゅう)両眉。兄弟姉妹・友人・親戚運
づ賃雉棔覆任鵑燭きゅう)両目とその上側。不動産運、家財運
ッ暴宮(だんじょきゅう)両目の下の部分。子供運
ε柬裕棔覆未椶きゅう)下アゴから唇に接するまでの部分。部下運、目下運
Ш幣宮(さいしょうきゅう)目じりのあたり。恋愛運、夫婦運
┝戚餤棔覆靴弔笋きゅう)命宮の下から鼻の付け根にかけて低くなっている部分。病気災厄
遷移宮(せんいきゅう)両眉の角部分の斜め上、髪の生え際あたり。外国運、移動の吉凶
官禄宮(かんろくきゅう)額の中央部分。引立運、社会運
福徳宮(ふくとくきゅう)額の遷移宮の上部。福禄運 
相貌宮(そうぼうきゅう)顔全体の骨格やバランス。運のバランス、人生の傾向
である。


十二干支の応用として「天源術」の「十二宮伝」がある。

以下に該当する干支、宮の字句・読み方、特徴、開運法を記す。


❶子・滋宮(シ)…勤倹にして貯蓄心に富み物資の増殖に長ず。吝嗇にして恥多し。

滋の性の辛苦のもとを尋ぬれば金をふやそうふやそうがゆえ。

滋の性よまづまづこれを氣をつけな惜しくておもひきれね青物

❷丑・結宮(ケ)…正直にして守ること堅固なり。氣重く 偏固にして萬事渋滞し旧慣に泥む

結の性の辛苦のもとを尋ぬれば曲がることなく通したいゆえ

結の性よまづまづこれを氣をつけな言うべきことをいはでむかはら

❸寅・演宮(エ)…威厳ありて仁武の氣象に富む。氣位高く猛さ氣あり又威す氣あり。

演の性の辛苦のもとを尋ぬれば勢い過ぎていひはらふゆえ

演の性よまづまづこれを氣をつけな氣位過ぎて貧乏となる

❹卯・豊宮(ホ)…温和にして愛嬌あり。能く人を容る。放慢にして萬事遅滞す。

豊の性の辛苦のもとを尋ぬればなすべき事をなさで置くゆえ

豊の性よまづまづこれを氣をつけなくせになるぞや朝寝大食

❺辰・奮宮(フ)…勇敢にして進取の氣象に富む。慢心強くして外へ怒る氣激し但し長命なり。

奮の性の辛苦のもとを尋ぬれば理を非にまげて勝ち通す故

奮の性よまづまづこれを氣をつけな目上たりともまけぬりきみを

❻巳・止宮(ト)…気品高く萬事熱心にして其の志を遂ぐ。精忌嫉妬の念深くして陰鬱なり。

止の性の辛苦のもとを尋ぬれば何につけてもねたましき故

止の性よまづまづこれを氣をつけなやきもちゆゑに恥も忘るる

❼午・合宮(コ)…豪快にして事に頓着せず社交に通ず。愛し易くして又離れ易し。

派手なる事を好む。

合の性の辛苦のもとを尋ぬれば金持らしく見せたいがゆゑ

合の性よまづまづこれを氣をつけな色氣とかざる故に借財

❽未・老宮(ロ)…柔軟にして緻密周到。同情の念為し又一藝に達す。

取り越し苦労多く、憂絶えず。又謙譲に過ぎて進取の氣乏し。

老の性の辛苦のもとを尋ぬればおもんばかりの遠すぎる故

老の性よまづまづこれを氣をつけな頭痛の種ぞ寝ずにくよくよ
❾申・緩宮(カ)…敏活にして臨機応変の才あり。軽薄にして思慮浅し。

世話事を好み辛苦絶えず。又衆人と和せず。

緩の性の辛苦のもとを尋ぬればぬしのおかげと言はれたい故

緩の性よまづまづこれを氣をつけな話に乗ってうそをつく罪
➓酉・堕宮(タ)…智恵深くして発明工夫に長ず。又諸藝に達し器用なり。音聲清し。

才智を頼みて大業を企て僥倖心強く、詐謀ありて身を破る。

堕の性の辛苦のもとを尋ぬればほめられたさの智恵を出す故

堕の性よまづまづこれを氣をつけな胸の縄ばり大きすぎるを
⓫戌・煉宮(レ)…究理心深く忍耐強くして、義を保つ。長命なり。

内に怒る氣強くして凝る。理屈多く、自分勝手にして意地悪し。

煉の性の辛苦のもとを尋ぬれば辛抱つよさ見せたいが故

煉の性よまづまづこれを氣をつけないはずと知れた事をいふこと
⓬亥・實宮(ウ)…實直にして勇氣あり。直進して能く其の初志を貫徹す。

脇ひら見ず一途にして人と和協せず。

實の性の辛苦のもとを尋ぬれば後をも見ずに言ひ過ぎる故

實の性よまづまづこれを氣をつけな相談なしにきめる一存


❶〜⓬に十二宮の性質、気をつけるべきことを教えた和歌を記した。

和歌は、十二辛苦の歌、十二童子の歌である。こういう心が自分にあるかを見れば

お分かりになると思う。各宮の性質に凝らないようにする、善用する、これが先ず先ずの

秘訣である。次に看命の仕方をお伝えする。



◎265日遡るべし


生まれ宿った年を大輪。生まれ宿った月を中輪。生まれ宿った日を小輪という。

生まれた日から265日遡って算定する。まさに神秘的である。

小輪は0〜20才、中輪は〜40才、大輪は〜60才である。以後はまた小輪と同じものになる。

すなわち大々輪が〜80才(小輪と同じ)、大大々輪が〜100才(中輪と同じ)。

三つは関連し同時に動くが、年齢により比重が変わる。

又、四つ目、七つ目が連動して動く干支であるから、よく見ること。


実はこれに後天的な「ハタケ」が関わってくる。いわゆる人相とは違う観方があるわけで

ある。この「ハタケ」の観相に熟達した人が本当の淘宮術の皆伝指導者ということができる。

立場で、奥伝だ、皆伝だと言っても意味がない。今の時代はどんな分野でも熟達者の居ない

時代なのだと思う。


自分の生まれた年と前年の暦を用意して、265日遡ってみればよい。

自分の生まれた日を第一日として遡るのである。

例えば五月生まれだとすると、だいたい8月の申月(緩宮)が中輪になる。大輪は前の年の干支。

年が変わるのが節分立春なので間違えないように。月の中輪も同じで、11月は亥月であるが

立冬の(節入り)から亥月になる。例えば今年の立冬は、11月7日だ。11月6日は前の月で

戌月(いぬ)になる。亥月になるのは11月7日からである。ご自分の265日遡った該当日を

割り出して大輪・中輪・小輪を定めたらよい。大輪・中輪が影響大なので心得ておかれると

よろしい。


「ハタケ」の割り出しは真の皆伝者に観てもらうよりほかなく、現代ではこれができる傳人

はほとんどいないと思う。だが、修養でハタケは変化する。生まれ持った十二宮の性質を

善用できるということは、ハタケが吉いから出来ることなのである。


◎運命の出方と修養の妙


大司命節で為された運命の定めも、各個人の性質から発現するということである。

各個人の十二宮から出た悪質が悪念・悪意を持ち、行為をするのである。悪しき事柄も

十二宮に沿って出てくる。


神仙感応経(太上感応篇)の真髄の教えに「諸悪莫作 衆善奉行」とありますが、

各個人の「諸悪」の為し方、性質、運気、現象などが「十二宮」で分かるということである。

先に挙げた、二つの歌には、教えが込められている。これを元にして修養をしてゆく。

さらに神拝、神法、道術を錬るのが修道士というものである。これは神仙も佛僊も変わら

ないものである。


ここまでくると、さらに進んで「仙人食事法」を行じなければならない。

では天神地祇諸仙万霊を念祷しましょう。


川島徳慈 記す

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【神ならう道 大司命節の大恩頼㊻】大祓詞と秘詞・秘言の照応

  • 2020.11.15 Sunday
  • 00:00

【神ならう道 大司命節の大恩頼㊻】


大祓詞と秘詞・秘言の照応



◎大祓詞は開運に通じる


大司命節も終わり、諸人は「運命の改定(きため)」という事を考えなくては

いけません。大司命節後すぐであるからこそ運命について考える必要があるのです。


大祓詞には「祓い清め」の深秘が霊示されています。正神界から現界に下付された

神ならう道の根本霊典である。合わせて「天津祝詞祓清太祝詞秘辞」「天津祝詞」を

修唱すれば言うことがない。


開運・盛運を願う者は、「天津祝詞」くらいは奏上しなければならない。

伊邪那岐大神の正神界開闢は、まさに祓戸大神の産霊(ムスビ)からはじまったのである。

祓いは「張る霊(はるひ)」で、禊ぎは「霊注ぎ(みそそぎ)」、霊の充実、霊の浄めを

為すのが大祓詞の修唱である。これが根本です。


◎大祓詞と秘詞・秘言の照応


「奇火三光章」「玄法攘魔秘文」「天津祝詞祓清太祝詞秘辞」は基本的な秘詞であるが、

これは「大祓詞」の大神業と照応している。修道が進むと自然に分かるようになっています。

伝授というほどのものではなく、修唱し境地が向上すると、自然に玄なる意味が自得される。

そういうように出来ています。


聖観音菩薩と葉衣観音菩薩の関係と同じで、総論と各論です。根本と枝葉という感じにも

似ている。大祓詞が根本で、各秘言・秘詞が専門的というところでしょうか。

「大祓詞」の修唱で確実に運命転換の元が下付されます(むすばれます)。


では、天神地祇諸仙万霊を念祷しましょう。大祓詞を修唱して大神様のおめこぼしを

頂きましょう。


川島徳慈 記す

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番外編❽【神ならう道の大恩頼】庚申祭・桃板寳符の大功徳

  • 2020.11.14 Saturday
  • 12:43

番外編❽【神ならう道の大恩頼】


庚申祭・桃板寳符の大功徳



◎庚申司命祭


皆様お疲れ様でした。ありがとうございました。感謝申し上げます。

庚申祭は大司命節につらなる節儀であり、実際の効用が体感される法式です。

「日待ち」までやられている方々も居られたであろうと存じます。こういう祭儀は

準備を整えて行うことが大切です。


実際上の修道の儀式やらを執行させていただくことが、三度の飯より好きな私のような

風変わりの人間は別として、普通の生活を営んでいる方にとっては色々な不都合が生じ

ますので、そういう不都合が無きよう各自配慮されたく思います。


庚申祭には書物を読んだり、音楽を聴いたり、書き物をしたりと、有意義に過ごそうと

するのですが、時にお腹が空いてきて、餅入りのおしるこ食べたりしてしまいます。

当然、庚申日の朝に服す護符、夜に服す秘符とあるわけですが、これを服すとお腹の中が

非常に動くわけです。お守りとしての「庚申秘符」があります。その縁起を述べましょう。



◎桃板御寳符の縁起


庚申の霊符には「老君六甲符」「絶三尸九蟲秘法」などあるわけですが、一番の大功徳は

「絶滅三尸九蟲秘法」と言われる、「太上眞人斬三尸桃板之寳符」といわれる「桃板寳符」

です。


この秘符には、一枚で書する法が伝えられており、これは功徳を廻らせる法というべき

ものである。詳しく言うと、庚申日に、桃板に黒い墨で「三尸九蟲三符呪文 一符之御寳符」

を記して、その日に戸内の柱に貼る。これは衆人の百病除災の用法である。

あるいは白紙に黒墨で書し服する。殊に庚申日に行なう。


この秘符に御神氣を蒙ぶらせるには、「桃板之寳符」同様に徹夜の庚申日待ちを行ない、

日の出の朝光に当てて、「勅符咒」(六十九文字)を修唱する。漢文読みでも、書き下し文

でも どちらでもかまわない。次のようにはじまる秘咒である。

「日は東方に出で、赫赫堂堂。「某」神符を帯ぶ。符は四方を衛る。神符の威により、

胃を換え腸を蕩く。百病除癒、…」


私たちは赤塚先生の御厚意と恩頼で、桃板のご提供を蒙ぶることができた。何人かの士が

この法を実践できたと記憶している。これはおよそ8〜9年前ぐらいだったと思う。

所定の大きさの桃板を用意すること自体が難しい。それだけに如法にできた時の喜びは

何物にも代えがたいものがある。



◎「延命十句観音経」千巻読誦等


庚申祭のおつとめは、庚申日の7時、14日の零時、14日の5時となっていたが、

実際には、13日の午後5時、7時、9時、14日の零時、3時、5時であった。

その中の一度は「延命十句観音経」の千巻読誦を行った。庚申青塔婆申込者のご健康と

弥栄を願ってである。もちろん庚申会青塔婆滅罪生善のお加持法も一体一体おこたりなく

修した。


世の中、新型コロナの第三波感染拡大で経済が混乱し沈着して大変なことになってきている。

一人でも夢を捨てず、道を見つけてほしい。そんな思いから「延命十句観音経千巻読誦」

を諸人の為に捧げました。


次回の庚申日は60日後です。

天神地祇諸仙万霊を念祷し、さらに進んでまいりましょう。


川島徳慈 記す

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【神ならう道 大司命節の大恩頼㊺】覚世真經と頭山満翁

  • 2020.11.14 Saturday
  • 00:00

【神ならう道 大司命節の大恩頼㊺】


覚世真經と頭山満翁



◎覚世真經のこと


覚世真經

「曰く、人生れて世に在りては、忠孝節義等の事を盡すを貴ぶ。方に人の道に於いて

愧づることなくして、天地の間に立つべし。若し忠孝節義等の事を盡さずんば、身は

世に在れども、その心は己に死せるなり。これを生を偸むという。凡そ人の心は即ち

神にして神は即ち心なり。心に愧づることなければ、神に愧づることになし。若し

これ心を欺くは、即ちこれ神を欺くなり、故に君子は三畏と四知とによりて、以て

その独を慎む。暗室欺くべしということ勿れ。屋漏にも愧づべし。一動一静も神明は

監察し給う。十目十手は理の必ず至る所なり。況や報応昭昭として毫髪をだも爽え

ざるをや。淫は萬悪の主たり。考は百行の原たり。ただ理に逆うことあれば、心に

於いて愧づる者あり。利あるがために之を行うと謂うことなかれ。凡そ理に合する

ことあれば、心に於て愧づる者なし。利無きがために行はずと謂うことなかれ。若し

吾が教に負かば、請う吾が刀を試みん。もし天地を敬い、神明に礼し、祖先を奉じ、

双親に考にし、王法を守り、師尊を重んじ、兄弟愛し、朋友に信あり、宗族に睦しくし、

郷隣に和し、夫婦に別あり、子孫を教え、時に方便を行い、広く陰功を積み、難を救い

急を濟い、孤を恤れみ貧を憐み、廟を創修し、経文を印造し、薬を捨し茶を施し、殺を

戒め生を放ち、橋を造り路を修め、寡を矜み困を抜き、粟を重んじ福を惜み、難を排し

粉を解き、貲を捐てて美を成し、訓を垂れて人に教え、冤讎を解釈し、斗秤をば公平

にし、有徳の人に親しみ近づき、凶しき人には遠ざかり避け、悪を隠し善を揚げ、物を

利し民を救い、心を囘らして道に向い、過ちを改めて自ら新たにし、満腔仁慈にして

邪念存せず、一切の善事は信心に奉行せば、人は見ずとも、神は已に早く聞き、福を

加え義を増し、子を添え孫を益し、災は消え病は減じて、禍患は侵さず、人も物も、

咸寧くして吉き星は照臨せん。若し悪心を存して、善事を行わず、人の妻女を淫し、

人の婚姻を破り、人の名節を壌り、人の技能を妬み、人の財産を謀り、人を唆して

争訟せしめ、人を損じて己を利し、家を肥し身を潤し、天を恨み地を怨み、雨を罵り

風を呵り、聖を謗り賢を毀り、像を滅ぼし神を欺き、牛犬宰り殺し、字紙を穢溺し、

勢を恃みて善を辱め、富に倚りて貧を厭し、人の骨肉を離し、人の兄弟を間し、正道を

信ぜず、奸盗邪淫し、奢詐を好み尚び、勤倹を重んぜず、護国を軽んじ棄て、恩有るに

報ぜず、心を瞞し己をくらくし、斗を大にし秤を小くし、邪教を假立して愚人を引誘し、

昇天を詭り説きて、物を斂め淫を行い、明には瞞し暗には騙し、横言し曲語し、白日に

呪詛し、地に背きて害を謀り、天理を存せず、人心に順わず、報応を信ぜず、人を引きて

悪を作さしめ、片善をも修せずして、諸の悪事を行うときは、官詞、口舌、水火、盗賊、

悪毒、瘟疫ありて、敗を生じ、蠢を産し、身を殺し、家を亡ぼし、男は盗み、女は淫し、
近報は身に在りて、遠報は子孫に及ぶべし。神明の監察は毫髪も紊れず。善悪の両途は

禍福の分かるるところなり。善を行えば福報い、悪を作せば禍臨む。我この語を作す。

願わくは人々奉行せよ。言は浅近なれども、大に心身に益あらん。吾が言を戯悔せば、

首を斬られ形を分たれん。能く持誦するあらば、凶を消し慶を聚めん。子を求むれば、

子を得べく、寿を求むれば、寿を得べく、富貴功名皆よく成すこと有らん。凡そ祈る所

あらば、意のままにして獲られ、万禍は雪のごとく消えて、万祥は雲のごとく集まらん。
諸の此の如き福は、惟善によりてのみ致すべし。吾はもとなく私なく、ただ善人を佑くる

のみ。衆善奉行してその志を怠らしむる勿れ。」


◎大船白衣観音の功徳


上記に「覚世真經」を示した。

この經典を注解した「覚世真經注解」は濱地天松居士により発行された。天松居士は、

大船観音建立に尽くした人で、総代として頭山満氏が名を連ねている。私の母の実家は

平塚なので東海道線に乗車していた。幼な心に大船白衣観音の巨像をいつも憶念していた。

大船と言えば、大船白衣観音であり、今は無きドリームランド(遊園地)だ。白衣観音の巨像

は大船駅前にある。


大船観音寺は總持寺の末寺で、本尊は、聖観世音菩薩を祀っている。
昭和2年2月、この国を憂え、この国を護ろうとする金子堅太郎氏、頭山満氏、清浦圭吾氏、

濱地天松居士、花田半助氏らが集い「観音思想の普及を図り、以て世相浄化の一助となさん」

という「護国大観音建立会」の趣意書を作成し、寄付金の勧募が始められた。
昭和4年4月14日、起工式が行われ、工事が着手された。しかし、建立予定地が東側斜面に

崩れる地層であることから、当初の計画である立像建立を変更しなければならないことに。

そして胸像に変更されたのである。その後は寄付金も思うように集まらず、昭和9年には

とうとう工事が中断。未完成のままの状態で23年間放置される事になった。


昭和20年8月15日、大戦が終結。すでに、頭山満氏らも没し、花田氏らが絶対としてきた

天皇主義が敗戦によって崩壊したこと等から、観音像建立への覇気は薄れてしまう。
昭和25年6月から昭和28年7月にかけての朝鮮戦争による特需で、日本は一気に経済力を復興

させ、高度成長の時代を迎え、観音像再建に向けて動き始めます。後に五島美術館館長となる

西村清氏は、昭和28年の大晦日に五島慶太氏の私邸に呼び出され、「僕の学友牧野良三君や

高階瓏仙禅師から、昭和4年に手がけて未完成のままであって、荒れ果てた大船観音を完成する

」ことの指示を受け、財団法人の設立手続きから大本山總持寺へ経営が移譲されるまでの間、

業務を統括することとなった。この辺のことは、五島慶太氏のお孫さんである五島哲氏が、

私の施術のクライアントだったのでお聞きしている話です。


昭和29年11月2日、財団法人「大船観音協会」が安藤正純氏、高階瓏仙禅師、五島慶太氏

らが発起人となって発足。「護国大観音建立会」と共に世相浄化という建立目的は消滅した。

鳩山内閣の文部大臣に就任した安藤正純氏が死去したことにともない、同じ鳩山内閣の法務

大臣牧野良三氏を発起人筆頭とし、再建立発起。募金趣意書にはこうある。

「大船観世音菩薩の尊像を一日も速やかに完成し、名実ともに法煙たなびく

霊場として、十方世界を慈照する大観音の運遠崇高無比な聖姿を仰ぎ、

法悦と随喜の光がおのずから心の闇を照らし、国民道義を清浄無垢な真の姿に

復元し、日本の興隆と世界の平和に不動の礎を築く一助と致し、また、さきの

大戦に殉ぜられた二百有余万の英霊をこの尊像の胎内にお迎えして悠遠の生命が、

この霊座に鎮座ましまし、法楽の供養をささげ奉ることを祈念いたし、

大船観音尊像の完成を発願いたしました」と。

建立相成って、爾来 大船白衣観音像は鎌倉市大船駅前に御鎮座している。



◎頭山満翁は仙客である


頭山満翁(とうやまみつる)安政2年4月12日(1855年5月27日)~ 昭和19年(1944年)

10月5日(享年89才)。

明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥でもある。

号は立雲。生地は筑前国早良郡西新町(福岡県福岡市)。没地は、静岡県御殿場市。
玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在。後の愛国主義団体や右翼団体

に道を開いたとされる。中江兆民や吉野作造などの民権運動家とも交流があった。

鳥尾小弥太・犬養毅・広田弘毅など政界にも広い人脈を持ち、実業家・篤志家としての側面

も持っていた。早い時期から日本の海外進出を訴え、朝鮮の金玉均、中国の孫文や蔣介石、

インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命した

アジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。

頭山満翁は、安政2年(1855年)4月12日、筑前国早良郡西新町の福岡藩士・筒井亀策の

三男として生まれる。幼名は乙次郎。後に母方の頭山家を継ぐことになり、太宰府天満宮の

「満」から名前を授かって頭山満と改める。サツマイモを売り歩く貧しい少年時代を過ごす。

慶応元年(1865年)11歳の時に「楠木正成のような人物になりたい」という思いから生家

の庭に楠を植えた。16歳の時、福岡藩の勤皇派の流れを汲む高場乱(たかば おさむ)という

男装の女医の興志塾に入門する。明治9年(1876年)に秋月の乱、萩の乱が起こると、

頭山はこれに呼応して進藤、箱田らと共に蜂起を画策し投獄され、翌年の西南戦争は獄中で

知ることになる。西南戦争時には、約500名の旧福岡藩士も呼応して決起したが、それに参加

し、尊敬する西郷隆盛と共に戦えなかった悔しい思いが、玄洋社の原点になったとされる。


西南戦争の翌年の明治11年5月14日大久保利通が暗殺され、西郷討伐の中心人物の死を受け

、板垣退助が西郷隆盛に続いて決起することを期待して、頭山は高知に旅立つ。しかし、

板垣は血気にはやる頭山を諭し言論による戦いを主張。これをきっかけに自由民権運動に

参画した頭山は、板垣が興した立志社集会で初めて演説を体験し、植木枝盛ら民権運動家と

交流を結ぶ。高知から福岡に戻った頭山は福岡の街の不良たちを集め、12月に向陽社を結成し、力づくで地元炭鉱労働者の不満や反発を抑えるようになる。

玄洋社は、自由民権運動の結社であった向陽社を改名して結成され、箱田六輔(30歳)・

平岡浩太郎(29歳)・頭山満(25歳)は「玄洋社三傑」とも称された。結成の届け出の際に

示された玄洋社の基本精神である「憲則三条」は次の通り。
第一条 皇室を敬戴すべし。
第二条 本国を愛重すべし。
第三条 人民の権利を固守すべし。

明治13年(1880年)5月に、頭山は福岡から徒歩で東京に向かい、早稲田の近くに一軒家を

借りて住み始めた。7月初めには東北地方に行脚の旅に出て、福島の河野広中はじめ多くの

民権運動家と出会った。明治14年(1881年)、政府は国会開設の詔を発布し、九年後の

国会開設を決定した。自由民権運動は目標を失い、板垣退助は自由党を結成して政党政治の

時代に移行する。九州でも民権派が結束して九州改進党が発足し、玄洋社にも誘いが来た。

しかし、党利党略に明け暮れる運動家たちを嫌った頭山は加盟を見合わせ、玄洋社の面々は

各自の事業に専念するようになる。


明治17年(1884年)12月6日、朝鮮で日本と結んで自国の近代化を目指した金玉均が率いる

独立党によるクーデターが起こるが、清国軍の介入により三日間で失敗に終わった。
頭山は翌年、半島から長崎にたどり着いた金玉均と神戸の西村旅館で会い、支援のため当時の

金で500円(2020年現在の価値で約1,000万円程度)という大金を渡した。
明治20年(1887年)8月、頭山は『福陵新報』を創刊し、社長に就任。玄洋社の中心的人物

でありながらその社長になることすらなかった「頭山が生涯で唯一持った肩書」だった。

紙面は活気に満ち、売れ行きも順調であった。この時期に議論の的となったテーマは、

「不平等条約改正反対運動」の盛り上がり、清国に対する敵愾心などである。

政党政治が始まった当時の日本で、最も関心が高かったテーマの一つが条約改正である。

これは、幕末に結ばれた不平等条約を対等条約に改めようという政治課題であるが、実際に

政府が作る改正案はいまだに諸外国の圧力に屈した内容であったため、自由民権運動の流れを

汲む活動家たちは「改正反対」を声高に訴えていた。頭山は、その不平等条約改正反対運動の

リーダー的存在であり、また民権主義を訴えるだけでは国家の存立は困難と考え、自由民権

運動とは一線を画す手法をとるようになっていた。


明治22年(1889年)10月18日、首相・黒田清隆が「改正を断行する」と閣議で発言した

のを受けて、改正交渉の責任者であった外相・大隈重信が外務省門前で爆弾を投げ付けられて

右脚切断の重傷を負う事件が起きた。犯人の来島恒喜は元玄洋社員だったが、その場で頸動脈

を切って自殺したため背後関係は不明のままとなった。この事件で黒田内閣は瓦解、条約改正

交渉も白紙に戻った。明治23年(1890年)7月、第1回衆議院議員総選挙が行われ、政府側は

敗北した。日清戦争に向けての軍備拡大を進める政府の予算案は、第一回の議会では土佐派の

切り崩しで辛うじて通過したが、翌年の議会では否決される形勢となった。

そこで首相・松方正義は衆議院を解散するとともに、次の選挙での民党の締め付けを行った。

これが明治25年(1892年)の選挙干渉であり、民党支持者に対して買収や脅迫が公然と

繰り広げられ、時には警官までもが動員された。玄洋社も選挙干渉への協力を求められ、

その実行者となった。大規模な選挙干渉にもかかわらず、第2回衆議院議員総選挙も政府側の

敗北に終わった。その後 玄洋社は結社としての活動を縮小し、頭山は自由民権運動の「志士」

から脱却し、「国士」としてアジア主義への道を歩み始める。

明治28年(1895年)、日清戦争の終結後、広州での武装蜂起を企てた孫文が、密告された

ため頓挫し日本に亡命した。孫文は明治30年(1897年)、宮崎滔天の紹介によって頭山と

出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けることになった。

また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。
明治32年(1899年)、義和団の乱が発生し、翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった。明治44年(1911年)、辛亥革命が成功し、その翌年、孫文が中華民国臨時政府の大総統

に就任すると、頭山は犬養とともに中国に渡って会見し、長年の苦労をねぎらった。


その後、袁世凱に大総統の座を譲った孫文は、大正2年(1913年)の春に前大総統として

来日し各地で熱烈な大歓迎を受け、福岡の玄洋社や熊本の宮崎滔天の生家にも立ち寄った。

このとき既に頭山は袁世凱の動向を強く懸念していたというが、その予言通り袁世凱と争って

破れた孫文は、再び日本への亡命を余儀なくされた。日本政府は袁世凱支持に回っていたため

孫文の入国を認めない方針をとっていたが、頭山は犬養を通じて首相・山本権兵衛に交渉し、

亡命を認めさせた。孫文が匿われたのは霊南坂(現港区)にあった頭山邸の隣家である。
玄洋社は孫文の革命運動への支援と並行して、明治43年(1910年)の日韓併合にも暗躍した

とされている。杉山茂丸や内田良平などの社員もしくは250余名の関係者が日韓の連携の

ために奔走したのは事実だが、玄洋社が目指していたのは植民地化ではなく、「合邦」

という理想主義的な形態だったと見られている。

大正4年(1915年)、頭山は孫文の仲介により、インドの独立運動家ラス・ビハリ・ボース

と会談し、支援を決意した。当時のラス・ビハリ・ボースはイギリス領インド帝国の植民地

政府から追われ日本へ亡命していたものの、イギリス政府および植民地政府から要請を受けて

いた日本政府によって、国外退去命令を受けていた身であった。またボースの紹介により、

当時のインドの独立運動家で、アフガニスタンにインド臨時政府を樹立していたマヘンドラ

・プラタップにも会った。大正12年(1923年)、頭山は来日したプラタップの歓迎会を

開き、援助を約束した。そして、アフガニスタンが統一されると「わが明治維新の当時を

想わしむ」との賀詞を国王に送った。頭山はこのような独立支援の対象をフィリピン、

ベトナム、エチオピアなど当時アメリカやフランス、イタリアなどの列強の帝国主義の元に

ひれ伏していた地にも拡大していった。

大正13年(1924年)11月、孫文は最後の日本訪問を行い、神戸で頭山と会見した。

日本軍の中国東北部への侵攻により日中関係が憂慮すべき事態となっているのを受けての

会談であったが、孫文が撤退への働きかけを申し入れたのに対し、日本の拡大がアジアの安定

につながると真摯に考えていた頭山はこれを断った。会見の翌日、孫文は「大亜細亜問題」と

題する講演を行い、その4ヵ月後に病没した。
翌年、孫文の後継者として蔣介石が中華民国の国民軍総司令官に就任したが、その2年後には

下野して頭山を頼って来日し、孫文と同様に頭山邸の隣家で起居する。後に蔣介石は、頭山ら

に激励を受けて帰国し、孫文の宿願であった北伐を成功させる。昭和4年(1929年)、

南京の中山稜で行われた孫文の英霊奉安祭に、頭山は犬養毅とともに日本を代表して出席して

いる。

昭和7年(1932年)の関東軍の主導による満州国建国は、頭山の理想とは大きくかけ離れて

いた。昭和10年(1935年)、来日した満州国皇帝溥儀の公式晩さん会への招待を、頭山は

「気が進まない」との理由で断わっている。

日中戦争(支那事変)が勃発した昭和12年(1937年)通州事件が起き、当時の首相・近衛文麿

は、父の近衛篤麿や外相・広田弘毅と親密な関係だった頭山を内閣参議に起用する計画を

立てた。その上で蔣介石と親しい頭山を中華民国に派遣し、和平の糸口をつかもうとした。
近衛から打診をうけた頭山は内諾したが、頭山を「市井の無頼漢に毛の生えたもの」と見て

いた内大臣・湯浅倉平(元警視総監・内務次官)が参議起用に反対したため実現しなかった。

戦争が長期化し、日英米関係も悪化していた昭和16年(1941年)9月、頭山は東久邇宮稔彦

王から蔣介石との和平会談を試みるよう依頼される。頭山は、玄洋社社員で朝日新聞社主筆

の緒方竹虎に蔣介石との連絡をとらせ、「頭山となら会ってもよい」との返事を受け取った。
これを受けて東久邇宮が首相・東條英機に飛行機の手配を依頼したところ、「勝手なことを

してもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった。東久邇宮はこの時の事を「頭山翁は、

衰運に乗じてその領土を盗むようなことが非常に嫌いで、朝鮮の併合も反対、満州事変も

不賛成、日華事変に対しては、心から憤っていた。翁の口から蔣介石に国際平和の提言を

すすめてもらうことを考えた」と書き残している。

頭山は静岡県御殿場の富士山を望む山荘で、第二次世界大戦末期の昭和19年(1944年)

10月5日、89年の生涯を閉じた。晩年は、揮毫をすることと囲碁を楽しむことを日課として

静かに過ごしていたという。頭山は長年にわたり囲碁界の後援者であり、本因坊秀栄らを

後援。倒れたのは室で碁盤に向かっている時であった。

存命中は常々「おれの一生は大風の吹いたあとのようなもの。何も残らん」と語っていた。
頭山家の菩提寺である圓應寺と博多崇福寺の玄洋社墓地にも墓はあり、青山霊園にもある。


頭山満翁は仙客として現在も富士の仙界に遊んでいる。彼は別に自分が仙人だと自認して

いたわけではないが、世のため人のための気概を知っていただきたく長々と頭山満翁の

歴史の一部を記した。

神真の大道の正道をゆく仙客とは、正氣を持つ志、気概だと言いたかったからである。

神仙に連なる士だから、神仙の法を知っているとかいうものではないということなのだ。

神仙(カミ)には、「政り事」の系統と、「祭り事」の系統があるという事を憶えておいて

いただきたい。


では「衆善奉行」を思い、天神地祇諸仙万霊を念祷しましょう。


川島徳慈 記す

ーーーーーーーー


◎庚申司命祭

令和2年11月13日(金) 庚申日「庚申司命祭」
❶13日(金)午後7時〜
❷14日(土)午前0時〜
❸14日(土)午前5時〜

※寝ないで「日待ち」を行なう。「三尸桃板宝符」を所持する者は佩帯すること。
※霊符・秘詞の秘伝を知る者はそれらを行ずる。
※祭儀には、祓い、献饌献酒、降神昇神儀、剣祓い、石笛奏上等 意楽に随って
加えるのはよし。

〔次第〕
二禮 二拍、
護身神法、天津祝詞、奇火三光章、玄府奇祝言、玄法攘魔秘文、
大祓詞(天津祝詞太祝詞秘辞)、神仙感応経、感通秘詞、産土神拝詞、
庚申祭祝詞、大國主大神禁厭秘詞、磐長壽姫大神祝詞、三尸除咒、
七魄制咒、天神地祇密咒、得仙秘文、国家安泰願帝無窮の祈念詞等、済世秘咒、
二拍、二禮
以上

ーーーーーーーー
当ブログ記事の無断転載引用を禁じます。
引用は自由ですが、引用する際は必ず著者の承諾を得ること。
これは同著者の過去のブログ記事一切(著者撮影の写真も含む)にも適用されます。
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【神ならう道 大司命節の大恩頼㊹】神仙守庚申法

  • 2020.11.13 Friday
  • 00:00

【神ならう道 大司命節の大恩頼㊹】


神仙守庚申法



◎神仙守庚申法


霊典「雲笈七籤」に記されている道教の法の一つである。神ならう道(神僲道)でも

欠くべからざるの法である。

件の「雲笈七籤」を畢竟の研究とされていたのが宮地巌夫大霊壽真である。

雲笈七籤との出会いの逸話は大霊壽真の著書に出ている。「霊夢で感得」して雲笈七籤の

在り処を知り、書生を幾人か連れてゆき、金子も使い、全巻の筆録を為し得たと。

私も先人のお陰で「雲笈七籤」全巻を下付され、日頃から通読させて頂いております。

これも大司命の恩頼です。


今の我々はそう苦労せずに得ることができるのは全く先人の恩頼というより他ない。

庚申法の眼目は三尸の消滅である。これはそう簡単ではない。言うは易く行うは難し。

一生もんです。


神仙守庚申法。庚申の夜に寝ないで朝日が昇るのを待つ。これで三尸の一が無くなる。

次の庚申でまた守庚申する。これで三尸の二が無くなる。さらに次の庚申日に守庚申。

これで三尸のうちの三が消える。これを繰り返す。これは理屈ですが。可秘可秘。



◎庚申日の滅罪生善の塔婆法


令和2年11月13日(金)の本日は「庚申日」です。まさに守庚申の日です。

塔婆法は密教に伝わるところの「滅罪生善」の法で、庚申日に是れを行なう。

私は葉衣観音の結護を為すために、産土神社や天満宮など参詣するわけですが、

その実は「庚申塔参り」でもって、霊的・幽的な連結を実現できるよう動いています。


庚申塔というのは小さくとも、今でも生きているんです。霊的・幽的に力がある。

道祖神というのもあるでしょう。お地蔵さんもある。特に庚申は神仙に関連があり、

佛僲も深く関与する。お地蔵さんに「願懺法」という願文があり貴重なものである。

道端に「お地蔵さんが…」みたいに思うわけですが、非常に意味があるのです。



庚申会の密教での御真言は青面金剛尊のご真言であり、火輪夜叉印という印契を結ぶ。

これで拝するのですが、庚申塔婆を作って滅罪と生善を祈る。私の場合は青塔婆を

合わせて行なう。奇しびなる秘伝です。当然、三尸除秘符もあり密用する。

御真言と共に「神仙感応経」の仙咒を使って懇祷する。

佛仙の法要と、神ならう道(神仙)の拝も行なう。


【青面金剛尊ご眞言】

オン デイバ ヤキシャ バンダバンダ カカカカ ソワカ


〔印契〕二手合掌。小指屈して背を合わせる。中指を印図のごとく交差させる。

頭指の先端を中指の先端に合わせる。大指は開き立てる。



◎庚申秘咒を密用して運を良くする


江戸時代に「庚申待ち」が盛んに行われその信仰が確立されました。

庚申待ちというのは寝ないで朝を待つ。庚申待の日に寝てしまうと、体内から三尸が

出て壽算(いのちのかず)を削られてしまう。そこで寝ないで朝を待つ。

三尸九蟲と云い、九蟲は三尸の属であり、三尸は「七魄」の属鬼である。

人間にとっての「鬼属」はまさに「七魄」である。その奥に「陰魔」がいる。


今からおよそ28年前に中国の北京にある「白雲館」に行きました。ここは道教の本山で、

たくさんの道士が勉強されていました。私は佛者ですから、修行の対象はひたすら「煩悩」

です。佛の教えでは「煩悩」の大本は、三毒煩悩で、さらに「無明」の煩悩だと。

煩悩の発生源に関しての奇しびで、私たちが為せる便法はなかったのです。せいぜい密教の

「(煩悩を)変化させる法」(例えば「怒り」を火炎に変化させて善用する明王法)しか無かった

のです。


ところが道教には「七魄」の教えがあり、殊に「臭肺(自死肺)」という煩悩を起こす

「七魄鬼」の一つの存在があった。この教えを得た時の喜びは格別で、それこそ欣喜雀躍

というものでした。この対応には奇しびな神法が必要なのです。


一番の便法は「庚申秘咒」を使って就寝すること。

あるいは寝ないで「日待ち」する。秘符・護符を用いる。

これを繰り返しますと、妙に運が良くなる。吉運の風が吹いてくる。

これを周易ではこれを「巽為風」の卦で表現している。

とにかく庚申について知ろうとするならば、「神仙感応経」を熟読し、自分のものに

してゆく努力をしなければ駄目。お話しはそれからです。



◎祛三尸除九蟲符妙呪の法


上記の四符を庚申日の夜に(日没後)写す。

心を鎮めて、香を焚く。白紙に朱で四符を謹書する。

書き終えたら、次の呪文を呪す(三遍)。そして適当な皿の上で焼く。

その灰を水で呑む。


【祛三尸除九蟲妙呪】

上景飛纒(じょうけいひてん) 朱黄散烔(しゅこうさんとう) 氣撮濁邪(きさつだくじゃ)

尸穢沉眠(しえちんみん)  和魂錬魄(わこんれんはく)  合形為仙(ごうきょういせん)  

令我不死(れいがふし)  福壽永全(ふくじゅえいせん)  聦聽徹視(そうちょうてつし) 

長亨利元(ちょうきょうりげん)  急急如律令(きゅうきゅうにょりつれい)



◎神仙の庚申司命祭の御祭神と祭祀

伊弉諾大神、少名彦那大神、大国主大神、須勢理姫大神、事代主大神、産土大神、
天津七十二大司命神、国津三十九司命神、小司命八千七百諸神 等。
迦具土大神。天香々背男大神、奥津彦大神、奥津姫大神の諸大神。

磐長壽姫大神。

迦具土大神・奥津彦大神・奥津姫大神は所謂「竃神三神」である。
奥津彦大神・奥津姫大神の御分身が竃神である。
迦具土大神は、死籍をひるがえして生籍に転じ給う神様。
天香々背男大神は、死籍を司り給う神様である。
特に磐長壽姫大神は特筆すべき存在であり、寿徳・寿福与えてくださる尊秘の大神である。

富士信仰で、猿が登場するのも故あっての事なのだ。富士は「不死」に通じ、「藤」に通じ、

それは「成仙」の信仰なのです。


富士信仰は木花佐久夜毘売大神が御祭神ですが、山の神として少名彦那大神、大国主大神が

奉祀され、磐長壽姫大神(木花知流夜毘売大神)が重要な役割を果たしているのです。


これらの大神の御神名(御眞名)を軸に墨書し、齋き祀るのです。

神仙の庚申司命祭をおやりになるなら、最低限このような設えを為し、庚申祭祝詞や道理に

適った願文等を奏上し催行したらよいと思います。

「六甲靈飛法」が施行できれば善いのではあるが…。「祛三尸除九蟲符妙呪の法」をあげて

おきました。


神仙の道は「祛三尸」からでしょう。佛僊のほうも「除三尸」があってこそ仏魔に墜ちる

のを避けることができる。仏教系統でも「祛三尸除九蟲」の教えがなければ、妖魅に

憑かれる可能性があり、真の霊的な高みにはゆけないということです。


では天神地祇諸仙萬霊を念祷しましょう。


ーーーーーーーー
【庚申日の夜に寝る人は、この呪文を唱えて眠るべし】
三戸を駆除する呪文(※就寝時に三遍以上お唱えする)

」展子(ほうこうし)・彭常子(ほうじょうし)・命児子(めいじし)・
悉入窈冥之中(しつにゅうようめいしちゅう)・
去離我身(きょりがしん)

彭候子(ほうこうし)・彭常子(ほうじょうし)・命児子(めいじし)・
悉く(ことごとく)幽冥(ゆうめい)之(の)中(うち)に入(い)りて
我身(わがみ)を去り離れる

仕事などの関係で寝なければいけない人は、上記の秘咒をお唱えして眠りにつけばよい。

´△里匹舛蕕でよい。就寝時に三遍唱えて眠りにつく。
「日待ち」は無理しないでください。


川島徳慈 記す

ーーーーーーーー


◎庚申司命祭

令和2年11月13日(金) 庚申日「庚申司命祭」
❶午後7時〜
❷午前0時〜
❸午前5時〜

※寝ないで「日待ち」を行なう。

※「三尸桃板宝符」を所持する者は佩帯すること。

※できる人は「祛三尸除九蟲符妙呪の法」やってみてください。
※霊符・秘詞の秘伝を知る者はそれらを行ずる。
※祭儀には、祓い、献饌献酒、降神昇神儀、剣祓い、石笛奏上等 意楽に随って
加えるのはよし。

〔次第〕
二禮 二拍、
護身神法、天津祝詞、奇火三光章、玄府奇祝言、玄法攘魔秘文、
大祓詞(天津祝詞太祝詞秘辞)、神仙感応経、感通秘詞、産土神拝詞、
庚申祭祝詞、大國主大神禁厭秘詞、磐長壽姫大神祝詞、三尸除咒、
七魄制咒、天神地祇密咒、得仙秘文、国家安泰願帝無窮の祈念詞等、済世秘咒、
二拍、二禮
以上
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引用は自由ですが、引用する際は必ず著者の承諾を得ること。
これは同著者の過去のブログ記事一切(著者撮影の写真も含む)にも適用されます。
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【神ならう道 大司命節の大恩頼㊸】庚申と帝釈天の秘密

  • 2020.11.12 Thursday
  • 00:00

【神ならう道 大司命節の大恩頼㊸】


庚申と帝釈天の秘密



◎明日は庚申司命祭の日です


明日13日は大司命節直後の庚申祭です。庚申司命祭というのが祭名としては正鵠を得た

ものだと思います。庚申日に祭儀を行うのは以下の三系統です。


❶神仙の教え(道教、神仙道など)

❷密教(特に天台密教でさかん)

❸日蓮宗の帝釈天庚申縁日参り


今この稿で取り上げるのは、日蓮宗での帝釈天信仰にまつわる、

三尸庚申との照応です。



◎柴又帝釈天(題経寺)の縁起


開山。経栄山題経寺と言い、寛永年間(1629年)に開基され、開山上人を中山法華経寺

第十九世禅那院日忠上人とし、弟子の第二代題経院日栄上人が実際の開基。

板本尊の出現。昔から日蓮聖人御親刻と言われる帝釈天のご本尊が安置されていた。

しかし江戸中期の一時所在不明となっていた。安永年間に至り当山の第九代亨貞院日敬上人

は此の寺のお堂が荒廃したのを歎いて、復興を計ったところ、安永八年(1779年)の春、

本堂改修中の梁上に板本尊を見出し、ついにご本尊の再来の法悦にあったのである。

その吉日が庚申日に当たったことが、庚申の結縁の始まりになった。


日敬上人は自ら誌した略縁起に「本堂棟上より出現した本尊は長さ二尺五寸、 幅一尺五寸、

厚さ五分の板で、形に似ずまことに重く,且つ堅く媒塵に汚れてよく判らなかったが、 

水でよく清めたところ、片面は日蓮聖人の真刻、病即消滅本尊の形木、片面は帝釈天王の像

である。 これこそ疑うべくもなく、当寺相伝の祈祷本尊である。」

と非常な驚きと悦びを述べている。


板本尊の尊形。板本尊の片面には、中央に「南無妙法蓮華経」のお題目が書かれ、 

両脇には、法華経・薬王品の「この経はこれ閻浮提の人の病の良薬なり、 もし人病あらん

に、この経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん」という経文が彫られてあり、

そしてもう一方の面には、右手に剣を持ち、左手を開いた忿怒の相を現した帝釈天御本尊が

彫られてある。 


これは悪魔降伏の尊形であり、即ち我々仏の教えを信仰し、従う者には、もし病難や火難、 

その他一切の災難に遇えば、帝釈天が必ず守護し、この悪魔を除き退散させてくれると

言うものである。

不思議縁起。江戸期安永年間が九年で終わり、次いで天明となり、天明大飢饉、大疫蔓延

の年、即ち天明三年を迎えた。日敬上人は災難に遇っている人々救うはこの時にありと、

この板本尊を自ら背負い、江戸をはじめ下総の国の諸処を訪れ、感得した一粒符を多くの

病者に施与し、板本尊を拝ませて不思議な御利益を授けたのである。

宵庚申ということ。江戸を中心とした帝釈天信仰が高まり、殊に江戸時代盛んであった

「庚申待ち」の信仰と結びついて、「宵庚申」の参詣が盛んになった。
明冶初期の風俗誌には『庚申の信仰に関連して信ぜらるるものに、南葛飾郡柴又の帝釈天

がある。 帝釈天はインドの婆羅門教の神で、後、仏法守護の神となったが、シナの風俗

より出た庚申とは何の関係もない、 此の御本尊は庚申の日に出現したもので,以来庚申日

を縁日として東京方面から小梅曳舟庚申を経て、 暗い田圃路を三々五々連立って参り,

知る人も知らない人も途中で遇えば、必ずお互いにお早う, お早う、と挨拶していく有様は

昔の質朴な風情を見るようである。』と書いてある。


見渡す限りの葛飾田圃には提灯が続き、 小梅、曳舟から四ツ木、立石を経て曲金(高砂)の

渡しから柴又への道を又千往、 新宿を通って柴又へ至る二筋の道に灯が揺れて非常に賑やか

だったと言う事である。 茶屋の草だんご等は今に至っている。人々は帝釈天の本堂で一夜を

明かし、一番開帳を受け、庭先に溢れ出る御神水を戴いて家路についたという。



◎帝釈天の網は無尽である!


帝釈天と言えば、因陀羅網だ。帝網無尽宝珠という。華厳経に出てくる比喩の教えだ。

重々縁起無尽の法という。一が万通じるというものである。帝釈天(インドラ)の宮殿には

網・宝珠が張り巡らされているのだ。この網状のものを「帝網」「因陀羅網」という。

寺院などでもこれを模して飾りとしている。一つの宝珠に響けば万に通じてゆく。

華厳経の縁起の教えを具現化したものである。


これが「庚申」と関係がある。

庚申の祓いという事をやってゆくと道が開いてゆく。万に通じてゆくのだ。

一つだけ言うと、このことは易を勉強しないと分からない。


◎宮地水位大霊寿神の恩頼


宮地水位師仙は「神僊順次伝」の中で、神祗の名称の変化を明らかにされた。

大神様が唐土では何と呼ばれ、天竺ではどういう御名であったのか?

そういう事を明らかにしておられる。帝釈天は一体どういう大神様が本体なのか


ズバリ帝釈天は伊邪那岐大神の天竺名なのである。

大司命の主宰大神は伊邪那岐大神であるが、その代命として青真小童大君少名彦那大神が

おられる。


これは大変な玄義を含んでいるのです。ですから帝釈天というものを追いかけて研究して

みてください。無論私は研究し尽くしています。でも私が全部喋ってしまったら面白くない

でしょう。自分で色々思索して、研究して、やってみてつかんでゆく。このほうが楽しみが

あるというものです。


明日は、庚申日です。初の遠隔「庚申司命祭」ということになります。

下記に次第を記しておきました。では天神地祇諸仙万霊を念祷してゆきましょう。


ーーーーーーーー

【庚申日の夜に寝る人は、この呪文を唱えて眠るべし】

三戸を駆除する呪文(※就寝時に三遍以上お唱えする)


」展子(ほうこうし)・彭常子(ほうじょうし)・命児子(めいじし)・

悉入窈冥之中(しつにゅうようめいしちゅう)・

去離我身(きょりがしん)


彭候子(ほうこうし)・彭常子(ほうじょうし)・命児子(めいじし)・

悉く(ことごとく)幽冥(ゆうめい)之(の)中(うち)に入(い)りて

我身(わがみ)を去り離れる


※仕事などの関係で寝なければいけない人は、上記の秘咒を

お唱えして眠りにつけばよい。無理しないでください。


【青面金剛尊ご眞言】
オン デイバ ヤキシャ バンダバンダ カカカカ ソワカ

〔印契〕二手合掌。小指屈して背を合わせる。中指を印図のごとく交差させる。
頭指の先端を中指の先端に合わせる。大指は開き立てる。


川島徳慈 記す

ーーーーーーーー


遠隔「庚申司命祭」


令和2年11月13日(金) 庚申日「庚申司命祭」

❶午後7時〜 

❷午前0時〜

❸午前5時〜


※寝ないで「日待ち」を行なう。「三尸桃板宝符」を所持する者は佩帯すること。

※霊符・秘詞の秘伝を知る者はそれらを行ずる。

※祭儀には、祓い、献饌献酒、降神昇神儀、剣祓い、石笛奏上等 意楽に随って

加えるのはよし。


〔次第〕

二禮 二拍、

護身神法、天津祝詞、奇火三光章、玄府奇祝言、玄法攘魔秘文、

大祓詞(天津祝詞太祝詞秘辞)、神仙感応経、感通秘詞、産土神拝詞、

庚申祭祝詞、大國主大神禁厭秘詞、磐長壽姫大神祝詞、三尸除咒、

七魄制咒、天神地祇密咒、得仙秘文、国家安泰願帝無窮の祈念詞等、済世秘咒、

二拍、二禮

以上
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当ブログ記事の無断転載引用を禁じます。
引用は自由ですが、引用する際は必ず著者の承諾を得ること。
これは同著者の過去のブログ記事一切(著者撮影の写真も含む)にも適用されます。
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【神ならう道 大司命節の大恩頼㊷】運は同一線の上に現れる!

  • 2020.11.11 Wednesday
  • 00:00

【神ならう道 大司命節の大恩頼㊷】


運命は同一線の上に現れる!



◎大司命節後の事として


大司命節の幽政の秘機により人の運命は改定され、11月8日より実質改定がなされている

のだ。11月9日大司命節のかぶりがあるが、運命の改定を実感できる初日であると思う。

冬至の「一陽来福」、正月元旦は一年の計、節分(立春)は干支歳の始まりである。

だがその前に、既に「運命改定」が決まっている。それが大司命節である。


定めはこの大節で為されているのだ。その大節による運命の反映、初日が11月8日なのだ。

実感するのは11月9日だという人もあり、何れにしても数時間という差異であろう。

問題は、運命というもの、それがどのように現出するかという事である。大司命節後の事

として其処のところを焦点に論じているわけである。


◎同一線の深秘


同一線に関しては以前にも取り上げたとは思うが、ここでは大司命節後の「運命改定」との

関連で述べることにしたい。

「同一線」というのは霊術の横綱 桑田欣児師が教授していた「真鑑法(神鑑法)」の中に

出てくる用語である。この同一線という見方こそが真鑑の真髄であるとすら考えることが

できる。


この方法は、私の同志の中では赤塚先生という方が共有し、よく研究されている。

私と赤塚先生は、「真観法」による鑑定ができます。

この方法は「天機(天の秘密)」の一つであると思い、一つの覚悟・矜持というものが

なければ霊活は難しく、世のため人のためには運用できないと思う。ゆえに傳人に

あたいしなければ、一種の霊祟が生ずる。そういうシロモノである。


※桑田師は「真鑑法」「神鑑法」と言いました。私たちは「真観法」としてしています。

観音経の「具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量」の理念に則り、「眞観清浄観 広大智慧観

悲観及慈観 常願常贍仰 無垢清浄光 慧日破諸闇」の実践原理から来ているからです。

聖観音菩薩の「眞観」なのです。土台には「大慈悲」があるのです。



◎「真鑑法」より


桑田欣児師「真鑑法」より「同一線」のところを少しく引用してみよう。

「…犬猫を正當以上に可愛がるか、何匹も飼ふか、虐待すれば、犬猫は五であるから、

金銭上の損か、缺乏か、子供がないか、弱いか、そのうち一つは絶対ににまぬがれない

事を、世上の事實が眼前に証明する。親のない者、子供のない者は、必要以上の小動物

の存在を注意しなければならぬのに、これに相當する人に限って、必ず犬猫が飼われて

ある。相続人の将来を知らぬ為とは云へ、自然の教示の恐ろしさに私は何日も身振ひを

する。…」

「…子供が怪我してゐるときは、五の線の支障であるが、若しそれが足であれば二重に

なり、更らに自己に腰が惡ければ三重になり、この時飼犬が死んだとすれば四重になる

から、五の線より、子供、犬、腰、足の文字を消すと、殘る文字は、西、金、目下の

文字が殘るから、その殘った文字の障害が表面化して來るは明かである。…」


以上は、その時の運命の象の現れであるが、長い時間の中で、つまり人生の中で、

この「線上」というものが「同一のライン」で顕現してくるのである。曜日とかジンクス、

方位・方角のジンクス、色・数字のジンクス等々。

別の実例として、こういうのもある。中村さんという苗字の人がいると吉であるという

もの。人相もあります。そういう人相の人、あるいは中村さんという人がその場にいる

という場合、運にツキがある。これも同一線の原理の上にある事実です。


◎運命発現の理を見究める


ここで私が言いたいことは、中村さんという姓名の中に「同一線」の原理になるものが

入っているのです。中村さんで運にツキが来るというのは、単なる活用の指針、一つの

方法にすぎません。


大切なことは、その奥にある「同一線」を見究めることです。必ず原理があるのです。

原理が分かれば応用範囲が広がり、見究めも容易くなってきます。

運の吉慶も、不運も「同一線上」にあるのだから、これは凡俗の人間にとっては

重要事項だ。これが前提として第一です。普通はこれで充分ですが、我々は神ならう道の

修道者ですから、もう一歩奥に行かねばなりません。


大司命節により「改定された運命」も必ず同一線に出るということです。

運命の不幸原理現象は「同一線上」ということで分かるわけですが、吉慶はどうでしょう。

これも同一線なのです。こっちは「幸福同一線」である。人間こちらの方がいいですよね。

誰でもそうです。


「同一線」というのは深秘の教えであり、自分も他人も「幸福に導く道しるべ」になります。

皆さんも、こういうせちがらい世の中ですが、そういう世相であるからこそ、身軽になり、

志をもって、楽しきこと、善きことを為していただきたいと思う。


例えばですね、易と同一線を結合するのです。いろいろ研究し、事実も積み重ねてゆく。

すると一条の光りが見えてくる。一つの事実というのは百の理論・理屈よりも重みが

あるのです。こんなことを空想しているだけでも胸がワクワクしてくる。


人間は考える生物なのですから、自己責任で考えて、工夫し、精進して、自ら万事体得して

いっていただきたく存じます。

では、産土司命神の御導きを乞祈み奉り、天神地祇諸仙万霊を念祷してまいりましょう。


川島徳慈 記す

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◎庚申司命祭

令和2年11月13日(金) 庚申日「庚申司命祭」
❶午後7時〜
❷午前0時〜
❸午前5時〜

※寝ないで「日待ち」を行なう。「三尸桃板宝符」を所持する者は佩帯すること。
※霊符・秘詞の秘伝を知る者はそれらを行ずる。
※祭儀には、祓い、献饌献酒、降神昇神儀、剣祓い、石笛奏上等 意楽に随って
加えるのはよし。

〔次第〕
二禮 二拍、
護身神法、天津祝詞、奇火三光章、玄府奇祝言、玄法攘魔秘文、
大祓詞(天津祝詞太祝詞秘辞)、神仙感応経、感通秘詞、産土神拝詞、
庚申祭祝詞、大國主大神禁厭秘詞、磐長壽姫大神祝詞、三尸除咒、
七魄制咒、天神地祇密咒、得仙秘文、国家安泰願帝無窮の祈念詞等、済世秘咒、
二拍、二禮
以上
ーーーーーーーー
当ブログ記事の無断転載引用を禁じます。
引用は自由ですが、引用する際は必ず著者の承諾を得ること。
これは同著者の過去のブログ記事一切(著者撮影の写真も含む)にも適用されます。
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