【神ならう道 大司命節の大恩頼㊺】
覚世真經と頭山満翁
◎覚世真經のこと
覚世真經
「曰く、人生れて世に在りては、忠孝節義等の事を盡すを貴ぶ。方に人の道に於いて
愧づることなくして、天地の間に立つべし。若し忠孝節義等の事を盡さずんば、身は
世に在れども、その心は己に死せるなり。これを生を偸むという。凡そ人の心は即ち
神にして神は即ち心なり。心に愧づることなければ、神に愧づることになし。若し
これ心を欺くは、即ちこれ神を欺くなり、故に君子は三畏と四知とによりて、以て
その独を慎む。暗室欺くべしということ勿れ。屋漏にも愧づべし。一動一静も神明は
監察し給う。十目十手は理の必ず至る所なり。況や報応昭昭として毫髪をだも爽え
ざるをや。淫は萬悪の主たり。考は百行の原たり。ただ理に逆うことあれば、心に
於いて愧づる者あり。利あるがために之を行うと謂うことなかれ。凡そ理に合する
ことあれば、心に於て愧づる者なし。利無きがために行はずと謂うことなかれ。若し
吾が教に負かば、請う吾が刀を試みん。もし天地を敬い、神明に礼し、祖先を奉じ、
双親に考にし、王法を守り、師尊を重んじ、兄弟愛し、朋友に信あり、宗族に睦しくし、
郷隣に和し、夫婦に別あり、子孫を教え、時に方便を行い、広く陰功を積み、難を救い
急を濟い、孤を恤れみ貧を憐み、廟を創修し、経文を印造し、薬を捨し茶を施し、殺を
戒め生を放ち、橋を造り路を修め、寡を矜み困を抜き、粟を重んじ福を惜み、難を排し
粉を解き、貲を捐てて美を成し、訓を垂れて人に教え、冤讎を解釈し、斗秤をば公平
にし、有徳の人に親しみ近づき、凶しき人には遠ざかり避け、悪を隠し善を揚げ、物を
利し民を救い、心を囘らして道に向い、過ちを改めて自ら新たにし、満腔仁慈にして
邪念存せず、一切の善事は信心に奉行せば、人は見ずとも、神は已に早く聞き、福を
加え義を増し、子を添え孫を益し、災は消え病は減じて、禍患は侵さず、人も物も、
咸寧くして吉き星は照臨せん。若し悪心を存して、善事を行わず、人の妻女を淫し、
人の婚姻を破り、人の名節を壌り、人の技能を妬み、人の財産を謀り、人を唆して
争訟せしめ、人を損じて己を利し、家を肥し身を潤し、天を恨み地を怨み、雨を罵り
風を呵り、聖を謗り賢を毀り、像を滅ぼし神を欺き、牛犬宰り殺し、字紙を穢溺し、
勢を恃みて善を辱め、富に倚りて貧を厭し、人の骨肉を離し、人の兄弟を間し、正道を
信ぜず、奸盗邪淫し、奢詐を好み尚び、勤倹を重んぜず、護国を軽んじ棄て、恩有るに
報ぜず、心を瞞し己をくらくし、斗を大にし秤を小くし、邪教を假立して愚人を引誘し、
昇天を詭り説きて、物を斂め淫を行い、明には瞞し暗には騙し、横言し曲語し、白日に
呪詛し、地に背きて害を謀り、天理を存せず、人心に順わず、報応を信ぜず、人を引きて
悪を作さしめ、片善をも修せずして、諸の悪事を行うときは、官詞、口舌、水火、盗賊、
悪毒、瘟疫ありて、敗を生じ、蠢を産し、身を殺し、家を亡ぼし、男は盗み、女は淫し、
近報は身に在りて、遠報は子孫に及ぶべし。神明の監察は毫髪も紊れず。善悪の両途は
禍福の分かるるところなり。善を行えば福報い、悪を作せば禍臨む。我この語を作す。
願わくは人々奉行せよ。言は浅近なれども、大に心身に益あらん。吾が言を戯悔せば、
首を斬られ形を分たれん。能く持誦するあらば、凶を消し慶を聚めん。子を求むれば、
子を得べく、寿を求むれば、寿を得べく、富貴功名皆よく成すこと有らん。凡そ祈る所
あらば、意のままにして獲られ、万禍は雪のごとく消えて、万祥は雲のごとく集まらん。
諸の此の如き福は、惟善によりてのみ致すべし。吾はもとなく私なく、ただ善人を佑くる
のみ。衆善奉行してその志を怠らしむる勿れ。」
◎大船白衣観音の功徳
上記に「覚世真經」を示した。
この經典を注解した「覚世真經注解」は濱地天松居士により発行された。天松居士は、
大船観音建立に尽くした人で、総代として頭山満氏が名を連ねている。私の母の実家は
平塚なので東海道線に乗車していた。幼な心に大船白衣観音の巨像をいつも憶念していた。
大船と言えば、大船白衣観音であり、今は無きドリームランド(遊園地)だ。白衣観音の巨像
は大船駅前にある。
大船観音寺は總持寺の末寺で、本尊は、聖観世音菩薩を祀っている。
昭和2年2月、この国を憂え、この国を護ろうとする金子堅太郎氏、頭山満氏、清浦圭吾氏、
濱地天松居士、花田半助氏らが集い「観音思想の普及を図り、以て世相浄化の一助となさん」
という「護国大観音建立会」の趣意書を作成し、寄付金の勧募が始められた。
昭和4年4月14日、起工式が行われ、工事が着手された。しかし、建立予定地が東側斜面に
崩れる地層であることから、当初の計画である立像建立を変更しなければならないことに。
そして胸像に変更されたのである。その後は寄付金も思うように集まらず、昭和9年には
とうとう工事が中断。未完成のままの状態で23年間放置される事になった。
昭和20年8月15日、大戦が終結。すでに、頭山満氏らも没し、花田氏らが絶対としてきた
天皇主義が敗戦によって崩壊したこと等から、観音像建立への覇気は薄れてしまう。
昭和25年6月から昭和28年7月にかけての朝鮮戦争による特需で、日本は一気に経済力を復興
させ、高度成長の時代を迎え、観音像再建に向けて動き始めます。後に五島美術館館長となる
西村清氏は、昭和28年の大晦日に五島慶太氏の私邸に呼び出され、「僕の学友牧野良三君や
高階瓏仙禅師から、昭和4年に手がけて未完成のままであって、荒れ果てた大船観音を完成する
」ことの指示を受け、財団法人の設立手続きから大本山總持寺へ経営が移譲されるまでの間、
業務を統括することとなった。この辺のことは、五島慶太氏のお孫さんである五島哲氏が、
私の施術のクライアントだったのでお聞きしている話です。
昭和29年11月2日、財団法人「大船観音協会」が安藤正純氏、高階瓏仙禅師、五島慶太氏
らが発起人となって発足。「護国大観音建立会」と共に世相浄化という建立目的は消滅した。
鳩山内閣の文部大臣に就任した安藤正純氏が死去したことにともない、同じ鳩山内閣の法務
大臣牧野良三氏を発起人筆頭とし、再建立発起。募金趣意書にはこうある。
「大船観世音菩薩の尊像を一日も速やかに完成し、名実ともに法煙たなびく
霊場として、十方世界を慈照する大観音の運遠崇高無比な聖姿を仰ぎ、
法悦と随喜の光がおのずから心の闇を照らし、国民道義を清浄無垢な真の姿に
復元し、日本の興隆と世界の平和に不動の礎を築く一助と致し、また、さきの
大戦に殉ぜられた二百有余万の英霊をこの尊像の胎内にお迎えして悠遠の生命が、
この霊座に鎮座ましまし、法楽の供養をささげ奉ることを祈念いたし、
大船観音尊像の完成を発願いたしました」と。
建立相成って、爾来 大船白衣観音像は鎌倉市大船駅前に御鎮座している。
◎頭山満翁は仙客である
頭山満翁(とうやまみつる)安政2年4月12日(1855年5月27日)~ 昭和19年(1944年)
10月5日(享年89才)。
明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥でもある。
号は立雲。生地は筑前国早良郡西新町(福岡県福岡市)。没地は、静岡県御殿場市。
玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在。後の愛国主義団体や右翼団体
に道を開いたとされる。中江兆民や吉野作造などの民権運動家とも交流があった。
鳥尾小弥太・犬養毅・広田弘毅など政界にも広い人脈を持ち、実業家・篤志家としての側面
も持っていた。早い時期から日本の海外進出を訴え、朝鮮の金玉均、中国の孫文や蔣介石、
インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命した
アジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。
頭山満翁は、安政2年(1855年)4月12日、筑前国早良郡西新町の福岡藩士・筒井亀策の
三男として生まれる。幼名は乙次郎。後に母方の頭山家を継ぐことになり、太宰府天満宮の
「満」から名前を授かって頭山満と改める。サツマイモを売り歩く貧しい少年時代を過ごす。
慶応元年(1865年)11歳の時に「楠木正成のような人物になりたい」という思いから生家
の庭に楠を植えた。16歳の時、福岡藩の勤皇派の流れを汲む高場乱(たかば おさむ)という
男装の女医の興志塾に入門する。明治9年(1876年)に秋月の乱、萩の乱が起こると、
頭山はこれに呼応して進藤、箱田らと共に蜂起を画策し投獄され、翌年の西南戦争は獄中で
知ることになる。西南戦争時には、約500名の旧福岡藩士も呼応して決起したが、それに参加
し、尊敬する西郷隆盛と共に戦えなかった悔しい思いが、玄洋社の原点になったとされる。
西南戦争の翌年の明治11年5月14日大久保利通が暗殺され、西郷討伐の中心人物の死を受け
、板垣退助が西郷隆盛に続いて決起することを期待して、頭山は高知に旅立つ。しかし、
板垣は血気にはやる頭山を諭し言論による戦いを主張。これをきっかけに自由民権運動に
参画した頭山は、板垣が興した立志社集会で初めて演説を体験し、植木枝盛ら民権運動家と
交流を結ぶ。高知から福岡に戻った頭山は福岡の街の不良たちを集め、12月に向陽社を結成し、力づくで地元炭鉱労働者の不満や反発を抑えるようになる。
玄洋社は、自由民権運動の結社であった向陽社を改名して結成され、箱田六輔(30歳)・
平岡浩太郎(29歳)・頭山満(25歳)は「玄洋社三傑」とも称された。結成の届け出の際に
示された玄洋社の基本精神である「憲則三条」は次の通り。
第一条 皇室を敬戴すべし。
第二条 本国を愛重すべし。
第三条 人民の権利を固守すべし。
明治13年(1880年)5月に、頭山は福岡から徒歩で東京に向かい、早稲田の近くに一軒家を
借りて住み始めた。7月初めには東北地方に行脚の旅に出て、福島の河野広中はじめ多くの
民権運動家と出会った。明治14年(1881年)、政府は国会開設の詔を発布し、九年後の
国会開設を決定した。自由民権運動は目標を失い、板垣退助は自由党を結成して政党政治の
時代に移行する。九州でも民権派が結束して九州改進党が発足し、玄洋社にも誘いが来た。
しかし、党利党略に明け暮れる運動家たちを嫌った頭山は加盟を見合わせ、玄洋社の面々は
各自の事業に専念するようになる。
明治17年(1884年)12月6日、朝鮮で日本と結んで自国の近代化を目指した金玉均が率いる
独立党によるクーデターが起こるが、清国軍の介入により三日間で失敗に終わった。
頭山は翌年、半島から長崎にたどり着いた金玉均と神戸の西村旅館で会い、支援のため当時の
金で500円(2020年現在の価値で約1,000万円程度)という大金を渡した。
明治20年(1887年)8月、頭山は『福陵新報』を創刊し、社長に就任。玄洋社の中心的人物
でありながらその社長になることすらなかった「頭山が生涯で唯一持った肩書」だった。
紙面は活気に満ち、売れ行きも順調であった。この時期に議論の的となったテーマは、
「不平等条約改正反対運動」の盛り上がり、清国に対する敵愾心などである。
政党政治が始まった当時の日本で、最も関心が高かったテーマの一つが条約改正である。
これは、幕末に結ばれた不平等条約を対等条約に改めようという政治課題であるが、実際に
政府が作る改正案はいまだに諸外国の圧力に屈した内容であったため、自由民権運動の流れを
汲む活動家たちは「改正反対」を声高に訴えていた。頭山は、その不平等条約改正反対運動の
リーダー的存在であり、また民権主義を訴えるだけでは国家の存立は困難と考え、自由民権
運動とは一線を画す手法をとるようになっていた。
明治22年(1889年)10月18日、首相・黒田清隆が「改正を断行する」と閣議で発言した
のを受けて、改正交渉の責任者であった外相・大隈重信が外務省門前で爆弾を投げ付けられて
右脚切断の重傷を負う事件が起きた。犯人の来島恒喜は元玄洋社員だったが、その場で頸動脈
を切って自殺したため背後関係は不明のままとなった。この事件で黒田内閣は瓦解、条約改正
交渉も白紙に戻った。明治23年(1890年)7月、第1回衆議院議員総選挙が行われ、政府側は
敗北した。日清戦争に向けての軍備拡大を進める政府の予算案は、第一回の議会では土佐派の
切り崩しで辛うじて通過したが、翌年の議会では否決される形勢となった。
そこで首相・松方正義は衆議院を解散するとともに、次の選挙での民党の締め付けを行った。
これが明治25年(1892年)の選挙干渉であり、民党支持者に対して買収や脅迫が公然と
繰り広げられ、時には警官までもが動員された。玄洋社も選挙干渉への協力を求められ、
その実行者となった。大規模な選挙干渉にもかかわらず、第2回衆議院議員総選挙も政府側の
敗北に終わった。その後 玄洋社は結社としての活動を縮小し、頭山は自由民権運動の「志士」
から脱却し、「国士」としてアジア主義への道を歩み始める。
明治28年(1895年)、日清戦争の終結後、広州での武装蜂起を企てた孫文が、密告された
ため頓挫し日本に亡命した。孫文は明治30年(1897年)、宮崎滔天の紹介によって頭山と
出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けることになった。
また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。
明治32年(1899年)、義和団の乱が発生し、翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった。明治44年(1911年)、辛亥革命が成功し、その翌年、孫文が中華民国臨時政府の大総統
に就任すると、頭山は犬養とともに中国に渡って会見し、長年の苦労をねぎらった。
その後、袁世凱に大総統の座を譲った孫文は、大正2年(1913年)の春に前大総統として
来日し各地で熱烈な大歓迎を受け、福岡の玄洋社や熊本の宮崎滔天の生家にも立ち寄った。
このとき既に頭山は袁世凱の動向を強く懸念していたというが、その予言通り袁世凱と争って
破れた孫文は、再び日本への亡命を余儀なくされた。日本政府は袁世凱支持に回っていたため
孫文の入国を認めない方針をとっていたが、頭山は犬養を通じて首相・山本権兵衛に交渉し、
亡命を認めさせた。孫文が匿われたのは霊南坂(現港区)にあった頭山邸の隣家である。
玄洋社は孫文の革命運動への支援と並行して、明治43年(1910年)の日韓併合にも暗躍した
とされている。杉山茂丸や内田良平などの社員もしくは250余名の関係者が日韓の連携の
ために奔走したのは事実だが、玄洋社が目指していたのは植民地化ではなく、「合邦」
という理想主義的な形態だったと見られている。
大正4年(1915年)、頭山は孫文の仲介により、インドの独立運動家ラス・ビハリ・ボース
と会談し、支援を決意した。当時のラス・ビハリ・ボースはイギリス領インド帝国の植民地
政府から追われ日本へ亡命していたものの、イギリス政府および植民地政府から要請を受けて
いた日本政府によって、国外退去命令を受けていた身であった。またボースの紹介により、
当時のインドの独立運動家で、アフガニスタンにインド臨時政府を樹立していたマヘンドラ
・プラタップにも会った。大正12年(1923年)、頭山は来日したプラタップの歓迎会を
開き、援助を約束した。そして、アフガニスタンが統一されると「わが明治維新の当時を
想わしむ」との賀詞を国王に送った。頭山はこのような独立支援の対象をフィリピン、
ベトナム、エチオピアなど当時アメリカやフランス、イタリアなどの列強の帝国主義の元に
ひれ伏していた地にも拡大していった。
大正13年(1924年)11月、孫文は最後の日本訪問を行い、神戸で頭山と会見した。
日本軍の中国東北部への侵攻により日中関係が憂慮すべき事態となっているのを受けての
会談であったが、孫文が撤退への働きかけを申し入れたのに対し、日本の拡大がアジアの安定
につながると真摯に考えていた頭山はこれを断った。会見の翌日、孫文は「大亜細亜問題」と
題する講演を行い、その4ヵ月後に病没した。
翌年、孫文の後継者として蔣介石が中華民国の国民軍総司令官に就任したが、その2年後には
下野して頭山を頼って来日し、孫文と同様に頭山邸の隣家で起居する。後に蔣介石は、頭山ら
に激励を受けて帰国し、孫文の宿願であった北伐を成功させる。昭和4年(1929年)、
南京の中山稜で行われた孫文の英霊奉安祭に、頭山は犬養毅とともに日本を代表して出席して
いる。
昭和7年(1932年)の関東軍の主導による満州国建国は、頭山の理想とは大きくかけ離れて
いた。昭和10年(1935年)、来日した満州国皇帝溥儀の公式晩さん会への招待を、頭山は
「気が進まない」との理由で断わっている。
日中戦争(支那事変)が勃発した昭和12年(1937年)通州事件が起き、当時の首相・近衛文麿
は、父の近衛篤麿や外相・広田弘毅と親密な関係だった頭山を内閣参議に起用する計画を
立てた。その上で蔣介石と親しい頭山を中華民国に派遣し、和平の糸口をつかもうとした。
近衛から打診をうけた頭山は内諾したが、頭山を「市井の無頼漢に毛の生えたもの」と見て
いた内大臣・湯浅倉平(元警視総監・内務次官)が参議起用に反対したため実現しなかった。
戦争が長期化し、日英米関係も悪化していた昭和16年(1941年)9月、頭山は東久邇宮稔彦
王から蔣介石との和平会談を試みるよう依頼される。頭山は、玄洋社社員で朝日新聞社主筆
の緒方竹虎に蔣介石との連絡をとらせ、「頭山となら会ってもよい」との返事を受け取った。
これを受けて東久邇宮が首相・東條英機に飛行機の手配を依頼したところ、「勝手なことを
してもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった。東久邇宮はこの時の事を「頭山翁は、
衰運に乗じてその領土を盗むようなことが非常に嫌いで、朝鮮の併合も反対、満州事変も
不賛成、日華事変に対しては、心から憤っていた。翁の口から蔣介石に国際平和の提言を
すすめてもらうことを考えた」と書き残している。
頭山は静岡県御殿場の富士山を望む山荘で、第二次世界大戦末期の昭和19年(1944年)
10月5日、89年の生涯を閉じた。晩年は、揮毫をすることと囲碁を楽しむことを日課として
静かに過ごしていたという。頭山は長年にわたり囲碁界の後援者であり、本因坊秀栄らを
後援。倒れたのは室で碁盤に向かっている時であった。
存命中は常々「おれの一生は大風の吹いたあとのようなもの。何も残らん」と語っていた。
頭山家の菩提寺である圓應寺と博多崇福寺の玄洋社墓地にも墓はあり、青山霊園にもある。
頭山満翁は仙客として現在も富士の仙界に遊んでいる。彼は別に自分が仙人だと自認して
いたわけではないが、世のため人のための気概を知っていただきたく長々と頭山満翁の
歴史の一部を記した。
神真の大道の正道をゆく仙客とは、正氣を持つ志、気概だと言いたかったからである。
神仙に連なる士だから、神仙の法を知っているとかいうものではないということなのだ。
神仙(カミ)には、「政り事」の系統と、「祭り事」の系統があるという事を憶えておいて
いただきたい。
では「衆善奉行」を思い、天神地祇諸仙万霊を念祷しましょう。
川島徳慈 記す
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◎庚申司命祭
令和2年11月13日(金) 庚申日「庚申司命祭」
❶13日(金)午後7時〜
❷14日(土)午前0時〜
❸14日(土)午前5時〜
※寝ないで「日待ち」を行なう。「三尸桃板宝符」を所持する者は佩帯すること。
※霊符・秘詞の秘伝を知る者はそれらを行ずる。
※祭儀には、祓い、献饌献酒、降神昇神儀、剣祓い、石笛奏上等 意楽に随って
加えるのはよし。
〔次第〕
二禮 二拍、
護身神法、天津祝詞、奇火三光章、玄府奇祝言、玄法攘魔秘文、
大祓詞(天津祝詞太祝詞秘辞)、神仙感応経、感通秘詞、産土神拝詞、
庚申祭祝詞、大國主大神禁厭秘詞、磐長壽姫大神祝詞、三尸除咒、
七魄制咒、天神地祇密咒、得仙秘文、国家安泰願帝無窮の祈念詞等、済世秘咒、
二拍、二禮
以上
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