超人類社会への道
【新 寂玄術(2)法の真髄は“愛”である!】
◎新 寂玄術の土台
わたしのいう「新 寂玄術」の土台は、野口晴哉先聖の著書『大絃小弦』で述べられている『七夕の方法』を工夫したものである旨は前回の記事で述べた。
この方法は聖俗関係なく人事百般に応用でき必ず効果を現わす。
野口晴哉著『大絃小弦』
◎新 寂玄術の真髄とは?
『心の力』『念の力』を使うということは、法の構造として間違いのないことだ。しかし、それだけでは旧来の寂玄術の延長線上にすぎない。
たしかに寂玄術の中の『自己入術法』を発展工夫したという点において、免れることはできない事だと思う。だが、「個人には霊能力を与え、全人類の和平を希求する方便・便法だということである」と述べた、わたしの理念からすると、テクニックだけでは埋めることの出来ないものがある。
それは何か?
それは『愛』である!!
次の章句を見てほしい!
『三歩先を見る能力を常に活用せよ、
さもなくば、常に三歩後を歩むことになる。』
◎三歩先を見る能力
三歩先の『三歩』とは、『時間・空間・物質』のことである。
肉体・心・霊というものも所詮は、時間・空間・物質の制約を受けている。完全に超越している訳ではない。
時間や空間・物質を越えるもの、それは『愛』だ。
『無』の始めから在るもの、そして来りて帰るもの、それは『愛』である。
一切の思念も想念も念力も、一切の技術・技法も、『愛』から派生したものにすぎない。時間・空間・物質を越えているものは、唯一『愛』なのである。
「常に三歩後を歩む」とは、空間や時間、物質に支配されてしまうことを意味する。
旧来の寂玄術は、『三歩後』に連なっている。
真実に自分自身でいること。このことが『愛』ということである。自分に素直に居る、このことは身勝手な振る舞いとは違う。『本性』を覚るということ。それは悟りであり、投げ出すことであり、生かされていることへの自覚である。
是くして人は『愛』に生き『愛』に還ってゆくのである。
『新 寂玄術』と銘打つ霊術は、古代の叡智を内包し、斯く創生したものである!
釈迦の智慧と慈悲、キリストの愛、ゾロアスターの教えも全てその『愛』が真ん中にあるっていうことなのか? おまえ新・寂玄術って宗教を越えた宗教の提示なんじゃねぇのー 時代は指導者を必要としているのではなく、各自が納得しながら自覚することを求めているっていうことでもあるのかぁ〜
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- 2015.01.07 Wednesday
- 00:00
近未来の超人類社会への提言
◎春一番と七草粥、そして異常気象
早いもので元日から一週間。6日は小寒。今晩は七草粥をいただく。今日までが松の内、正月のお飾りや折形等は本日をもってお下げしましょう。
お鏡さん(お鏡餅)は11日の『鑑開き』で開いてぜんざい等にしていただきます。
1月16日が「藪入り」、20日は大寒。そこから約2週間でようやく節分・立春をむかえ、真の迎春ということになります。節分を境にして干支や九星が変わるわけです。ですから暦の上では、あと約一カ月は未だ午歳なのです。
そんなわけなので元来のお正月というのは太陰暦に従います。春は、立春の2月4日に訪れます。
しかし、巷間でいう春は春分のお彼岸前後、桜の咲く時期ですが、整体的感覚では2月初旬であり、1月に春が訪れるということはなかったのです。
ですが、今年は1月6日(火)の昨日、春の訪れが来てしまいました。暦では「小寒」なのにです。
昨朝、霊夢にて春の訪れを示唆する内容を見ました。朝、吹く風の暖かみを感じ、体の緩まりを体感して、はっきり春の訪れを感じました。
◎未歳の運気は?
未の性質とは、老人の様な感じです。九星で言うと、二黒土星は老人のようであり未に似ています。しかし、二黒は転居の因縁は無い。未の気が強い場合、住所転居の悩みがあります。未は老人のようであり、おばあちゃんが孫の事を心配するように、いつもくよくよ悩んでいるような顔をしています。
前年の午は派手な感じの性質がある。ド派手な記者会見が多かったのはそのためです。
未はじっくり考える性質を持ちますから、今年人々は思慮の深いということが出てくるでしょう。
未の対宮は丑ですから、まさに動作の鈍いという感じの歳廻りです。
◎人工知能の可能性
さっそくNHKスペシャル五夜連続で人工知能の可能性が取り上げられていた。
興味のある方は是非番組を見ていただきたい。また、その方面の書籍も多数出版されているから勉強したらよいと思う。
一足飛びに人工知能によって統御された世の中が来るわけではないだろうが、今年から大いにその全貌が見えてくると思う。日本は産業技術で立っている国であるから、国民の理解力世界一という優秀さも相まって、ものすごいスピードで人工知能というものを使いこなすことになるであろう。
◎近未来の超人類社会への提言!
自然に親しみ、心の修錬、精神の練磨によって、自分の魂を知る。
修行とか修道というものは、自分の霊魂に目覚めるということが一番のテーマなのである。自分自身を知るとは、心も含めた精神・霊魂の把握覚醒のことである。
死ぬことを重ねる、繰り返し臨死する。脳の活動が日常ではなくなる時に、脳ははじめて霊魂の一端を自分に垣間見せる。死した脳髄の中で微弱な脳波が出ることはもはや知られた事実である。
そういう意味で睡眠へ入る過程は、死の兆候に似ている。人は毎日のように眠り、死の予行演習を行っている。
自然物に触れるということも、そういう観点から見てはどうか。禊を行なうというのも擬死再生の一つであり、寒さのあまり「無心」になるというのは、無心から想念が出てくるという思考発生のメカニズム、生命が母体に宿りやがて生まれるという、プロセスに擬しており、それはつまり「死と再生」なのである。
修験道で山に入り、擬死再生の儀式を修行という形で行うのも、整体で合掌して行気に集中するのも無心になるのは同じだということである。
無心になり、死に直面するということまで誘ってくれるのは、寒の滝行などの決死の修行だけである。自身のたましいと出会えるのは、そのような極限の修行でなければ為し得ない。
座って印を組んで、鎮魂帰神の神法らしきことをやっても無駄である。自分たちだけがやっているつもりになっているだけで、神法神術などにはなっていない。
◎霊的身体をつくる
意識だけでなく、霊的な身体をつくってゆくことが大切である。
是非とも古今東西に伝わるこの技法を世の中に広め遺したい。正確なところを未来の人類に遺しておきたい。
人工知能による統御、ロボット社会、人類は増々便利を手に入れ進歩するが、それに伴い自分というものを明確にする必要性が出てくる。高度な人工知能ロボット社会を手に入れると同時に、高い霊性・高度な道徳意識を持たない者は、高度に発達した超人類社会についてゆけず、底辺社会に呻吟するしかない存在になってしまうだろう。
気の身体ともいうべき、異質の身體を持つこと、それが人類の新たな可能性を開く、わたしはそう確信するものである。
密教霊術の技法の中にその可能性・発現技法を見出すものである。
超人類社会が近未来に来るってさぁ〜 ロボが活躍して人工知能が統御する!? じゃあ猫はどうなるんだ! あいかわらず日向ぼっこかぁー 今日はとくねこぱんの仲間のゆきちゃん紹介するよー
ゆき猫(猫生22年)
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