言葉の限界を感じる(2)

  • 2015.09.22 Tuesday
  • 00:00

◎言葉の限界を感じる(2)


・馬鹿馬鹿しさを感ず!

一昨日の「仙人食講座・序章」でわたしは馬鹿馬鹿しさを感じてしまいました。

皆さん夫々の事情の中で、やりくりしながら、それも秋のお彼岸の入りだというのに、講習会に参加された。このことにわたしは敬意を表し、その労をねぎらうものですが、それを差し引いても馬鹿馬鹿しさを感じてしまうのです。

その理由は“聴く”ということです。仏教では“聞法”といい、“聞・思・修”というのです。教えを聴く、それを沈思瞑想して真義を知る、さらに完全に実践する。キリスト教でも或る会派では会則の第一に“聞け”ということを挙げています。

聞くことの難しさです。話をしていても全然聞いていないのです。脳ミソの聞くべき場所に教えが入らない、入っていない。その以前に自分の思考や妄想が先にあるのです。

半数以上の人が聴くことが出来ていない。それどころかうわの空で聞いている。何を考えているのやら、不遜、興味なし、聞く気がないのなら時間もお金も使う必要はないでしょう。

わたししか教えられないということを咀嚼して教えている。他の誰にも先ず教えることの出来ない“成仙への道”を示しているのにです。

わたしにはすでにマスターが背後にいて、霊的な指導を陰日向で受けているという自覚があります。こういうことは滅多にないことなのです。このことの価値すらも多分分かっている人はいなかったと思います。滝に入って、荒行みたいなことをやって、霊地参拝して、瞑想したり、鎮魂・密教行法・読経をやったり、本をたくさん読んだり・・・、そんなことをやっても真のマスターが指導してくれることはないのです。

本来ならばこういうことはこのような公開のブログで云うべきことではないのでしょうが、いちいち口に出し話すのも面倒なので、こうしてサラリと書いてしまうわけです。

ほんとうに馬鹿馬鹿しく思い、もう教えをいままでの連中に述べるのは一切合切やめようかという考えが出てくるのも事実です。まったく違うグループを創造しようかと思いも出てきます。

人間の聞く耳を持たない、聞く容量がない、不遜さやそれに類する性格上の悪いクセは、秘教・密教を学ぶ上ではまったく必要のない性質です。

世間にある一般的な信仰や気功・整体・修行みたいなものをやっても、肉体のサヤの中に存在する、せいぜい“エーテル体”レベルの能力しか得られません。ある種の夢見とか、霊が見えるとか、そういう類いはエーテル体レベルです。その上の、アストラル体、メンタル体、コーザル体には遥かに及びません。

人はコーザル体を越えてはじめて通常の輪廻転生から解放される。このような教えを悉く知らぬうちは、本当の宇宙の実相を知ってるということはできません。

謙虚であり、礼をわきまえ、尊い真理の教えを望まれるのならわたしは交流を致しますが、不遜な態度をする人間や不規則発言を繰り返す輩は、わたしの中では問題外の人物です。法の器ではありません。

わたしは多くの友を必要としておらず、すでに法を語れる仲間も方々も点在ではあるが居りますので、わたしが友をこれ以上必要としていないことを、ここで明記しておきます。ですから、今後のお付き合いは、皆さん次第だということです。

花角有 川島龍徳しるす

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