言葉の限界を感じる(3)
- 2015.09.23 Wednesday
- 00:00
言葉の限界を感じる(3)
・師匠に対して 法友に対して
問題は、師匠に対して、法友に対しての態度である。
師匠にしても法友にしても、先達にしても、究極的には“友”なのである。しかし、秘教や密教、神道や普通の仏教的な知識ですら、まったく用語すら分からないレベルの者と、大学の講師に即なれるような研究者と、会話や態度に於いてタメ・対等と云うことがあるだろうか?
何かを教えてもらう、あるいは教えてもらったということがあるならば、それは先生であったり法友ということになる。しかし、いろいろな雑学的な書籍を渡したり、飲み物食い物を渡したとしても、それは何かを伝えたと言う事にはならない。
わたしは講習などやっても通常では得られない知識や秘伝、そういうものを体験を込めて伝達している。体験を伴った内容を教えられる人はあまりおりません。
このような教え方をしている者が稀なことをどう考えているのだろう?
そのことが分かっていれば、不遜な態度や、しらっとした悪態はできないと思う。
受け入れるだけの素地・素質がないのならば、はじめから来なければいいのだ。丸裸になって指導してくれと云って、こちらも請け負ったと宣言した間柄ならば、一切の責任をもって導くけれども、なかばお仲間のような関係で、不遜な態度をする者をどうして慰撫し教えなければならないのだ。そういう義務がわたしにあるのだろうか?
そんな義務などわたしにはありはしない。それは単に講習会に参加した者の悪いクセ、よくない性格をいかんなく発揮しているというだけのことだろう。
講習料はたったの三千円。腐心して準備しているこちらのことは全く考えず、平気で不遜な態度をする、銭は返すから、こっちの努力や時間を返せと云いたくなる。だからバカバカしいので理解者だけを集めて指導します。不遜さやタメ口、不規則発言をするような者はわたしの心の領域には入れません。入りたければ不遜さと余計な事をベラベラ言うその口にチャックをつけるように。それをマスターに誓いなさい。
・象を触る盲人なり
上記のような態度の者が修行や巡礼など敢行しても何の感応もありません。
あるとあったと思っているのはご本人だけで、それは霊的にも非常に低い、エーテル体レベルの体験にすぎない。(なにかの功徳はあるようだけれども、霊的な体験は積めない!)
今回の講習会で霊的真相が分かっている人など一人もいません。
まだまだ、ぜんぜん。道にすら入っておりません。
人間、化けるから明言できないないが、敢えて言うならば、わたしか私に匹敵する能力・法縁・体験を持つ者に指導してもらわない限り、自分だけの力で今のわたしの地点まで来ることはほとんど不可能です。
わたしは自分を師匠とは言わないが、ある種の霊的な導き手であることは間違いなく、現代の日本に於いて自分に類する能力を持つ者は稀にしか居ないということは事実であって、曲げようのない真実なのである。
そういうわたしでもいつかは肉体の死が来る。
だから今後は時間を大切に使いたいと思う。諸行無常、存在とは実に虚しい。だから非常に気分の悪い状況の講習会は致しません。今回は見事に落第者が続出したのです。今回とまったく同じメンバーで集うことは二度とないでしょう。少なくとも私が主催する集いではないでしょう。
あしからず。
最後に・・・
お経や祝詞を挙げても、倍音すら発声できないレベルの者が、霊的な感応云々云っても全然説得力がない。(坊さんでも神主でも“倍音”すら出せないのはプロではない)
昔、どこぞの整体かなんかの大先生が、自分の弟子がわたしのもとにゆきたいと言い始めたんで、こういったと言う。「あの先生は、霊感はないよ」と。いま、その大先生にお返しを込めて、ちょいと洒落て言挙げしましょう。
大先生、あなたはせいぜいエーテル体レベルか思い込みの霊感があるだけですよ。
そういう低レベルの界の海を泳いでいるだけなのです。それが自覚できていないのですね。おかわいそうに・・・。
わたしはもっとその上の階層に通達しており、あなたよりも高等な能力を保持しているからあなたには皆目わからないのです。要するに、3人の盲人が大きなアフリカ象の各部分を触って、それぞれが象さんはこんなようなものだと憶測しているようなものです。部分だけを触って全体を知ることはできないのです。
序章参加の貴方達がわたしを見ているというのは、それと同じこと。
なんにも分かっていないんです。
花角有 川島龍徳しるす
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