密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳(91)】

  • 2019.11.23 Saturday
  • 00:00

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳(91)】


≡ 秘話「延命十句観音経」❷ ≡



◎延命十句観音経は天満大自在天(天神)の功徳あり


延命十句観音経と北野天神が関わりがあるとしたのは白隠禅師である。

「延命十句観音経霊験記」では次のように記されている。


「その頃、京都三条通町家に住む男の妻が、 難治の病に罹って、薬も効果が無く、

その男は悲しんで、毎夜北野天神に丑の刻詣りをして妻の快復を祈願していました。

七日目満願の夜、ご神前で誦経などの法楽をし、お詣りを済ませ帰ろうとすると、

一人の老僧が茶店に腰掛けていました。老僧がその男に問うて言うには、

「あなたは毎夜神前詣でて、何か求めるところがあるのですか?」と尋ねると、

男は妻の病難のことを話しました。老僧は指を折って、易の八卦のようなことをして、

眉をひそめて嘆いて言うには、それは死に至るほどの重病である。扁倉のような名医

といえども、医療の秘術を尽くしても、鍼灸薬の三つをもってしても救い難い。

ここに一大事の義がある。それをあなた授与しよう。これを謹んで記し、帰ったならば

家族中で病人を囲み、この経を読誦しなさい。明日には全快するでしょう」と。

男は授かった経を二十遍、三十遍読み暗唱して、老僧に礼拝して帰宅した。
家に帰ってみると、家族五人~六人が病人を囲んで、声高に誦経をしていた。よく聞けば

先程老僧から授かった十句経だった。不思議に思った男は「誰にそれを教わったのか」と

聞くと、「いと気高き老僧が現れて この病人は天下の名医を集めて秘術を尽くしても

助けることは難しい。草根の薬をもっても快気を得れない。いかなる修験者の大秘法を

頼んでも助け救えない。私には微妙最上至極の金文がある。それを家内で寄って取り囲んで

交代で信心を凝らして唱えたならば、明日には希代(稀有)の霊験が現れるでしょう」と。

二十三十遍 同音して教えてくださいました。今まで此処におられたのですが、跡形もあり

ません。

男が「老僧のお年、お顔、袈裟の色」と一々尋ねると、先に紛れもなく北野天神で出会った

老僧そのものでした。北野天神が我々に信心深くお経を読誦させようとして、御身を両所に

分けてお経を伝授して下さったのだとわかり、悦び勇んで読誦を続けると、夕方には食事も

すすみだし、次第に全快へと向かったという。陀羅尼にも名号にも加持にも呪詛にも呪い

にも比類なき貴い金文である」

としています。

また禅師は、北野の天神様が沙門の姿に身を変え、自ら金文(延命十句観音経)を授けて

下さった。何を疑うことがあろうかと記し、北野天神の本地仏が十一面観世音菩薩で、

その化身であることにも言及しています。



◎般若心経奉読の大先達・塙保己一翁


塙 保己一(はなわ ほきいち)。

延享3年5月5日(西暦1746年6月23日生) - 文政4年9月12日(西暦1821年10月7日没)。

江戸時代の国学者。幼名は寅之助(とらのすけ)。失明後は辰之助(たつのすけ)。

多聞房(たもんぼう)とも名乗る。

雨富検校に入門してからは、千弥(せんや)、保木野一(ほきのいち)、保己一(ほきいち)

と改名。『群書類従』『続群書類従』の編纂者。総検校、贈正四位である。

武州児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれる。

塙は師の雨富須賀一の本姓を用いたもので、荻野(おぎの)氏の出自。

父は宇兵衛、母は加美郡木戸村の名主斎藤理左衛門家の娘きよ。弟卯右衛門(うえもん)。

幼少の頃から身体は華奢で乳の飲み方も弱く、丈夫ではなかった。

草花を好み、非常に物知りであったという。5歳のときに疳の病(胃腸病)に罹り、

その原因で目痛や目やにの症状が出て徐々に視力が弱っていき、7歳の春に失明した。


あるとき事の次第を聞いた修験者が生まれ年と名前の両方を変えなければ目が治らないと

進言し、名を辰之助と変え、年を二つ引いた。しかし、目痛や目やには治ったものの、

視力が戻ることはなかった。その後、修験者の正覚房に弟子入りして、多聞房という名を

もらうも、視力は戻ることはなかった。


手のひらに指で字を書いてもらい、文字を覚えた。また、手で形をさわったり匂いを

嗅いだりして草花を見分けることができた。目が見えなくなってから和尚や家族から

聞いた話を忘れることはなく、一言一句違わずに語ることができたほど記憶がが良かった

という。


10歳になると、江戸で学問を積んで立派な人間になりたいと考えるようになるが、

両親が反対するだろうと悩んだ。宝暦7年(西暦1757年)6月13日、母きよが過労と心痛

で死去する。形見としてきよのお手縫いの巾着をもらう。巾着には23文入っていた。

宝暦8年(西暦1758年)絹商人に「太平記読み」で暮らしている人の話を聞き、江戸で学問

をしたいという気持ちが募った。

二年後の宝暦10年(1760年)15歳で江戸に出て、永嶋恭林家の江戸屋敷のもとに身を

寄せる。約3年間を盲人としての修業に費やし、17歳で盲人の職業団体である当道座の

雨富須賀一検校に入門。名を千弥と改め、按摩・鍼・音曲などの修業を始めた。

しかし不器用で上達しなかった。加えて座頭金の取り立てがどうしても出来ず、絶望して

自殺しようとした。


自殺する直前で助けられた保己一は、雨富検校に学問への想いを告げたところ

「3年の間たっても見込みが立たなければ国元へ帰す」という条件付きで認められた。
保己一の学才に気付いた雨富検校は、保己一に様々な学問を学ばせた。

国学・和歌を萩原宗固(百花庵宗固)に、

漢学・神道を川島貴林に、

法律を山岡浚明に、

医学を品川の東禅寺に、

和歌を閑院宮に学んだ。

塙保己一は書を見ることはできないので、人が音読したものを暗記して学問を進めた。

保己一の学問の姿勢に感動した旗本の高井大隅守実員の奥方に『栄花物語』40巻をもらい、

初めて書物を所有した。のち、雨富検校の隣人、旗本の松平織部が講義を受けていた

萩原宗固の講義をともに聞くことになった。松平は保己一に系統立てた学問をさせる必要を

雨富検校に説き、晴れて萩原宗固の門人として教えを受けることとなった。

宗固の勧めで漢学や神道を川島貴林(たかしげ)に、

同時に律令を山岡明阿に学んだ。


宝暦13年(西暦1763年)に衆分になり、名を保木野一と改めた。

明和3年(西暦1766年)雨富検校より旅費をうけ、父と一緒に伊勢神宮に詣で、

京都、大阪、須磨、明石、紀伊高野山などと60日ほどにわたって旅をした。

明和6年(西暦1769年)に晩年の賀茂真淵に入門し、『六国史』などを学ぶ。

その年の10月に真淵が死去したため、教えを受けたのは、わずか半年であった。

安永4年(西暦1775年)には衆分から勾当に進み、塙姓に改め、名も保己一と改めた。

安永8年(西暦1779年)『群書類従』の出版を決意する。

検校の職に進むことを願い、

般若心経百万巻を読み、北野天満宮に祈願する。


天明3年(西暦1783年)に検校となる。

天明4年(西暦1784年)和歌を日野資枝に学ぶ。

寛政5年(西暦1793年)幕府に土地拝借を願い出て和学講談所を開設、会読を始める。

ここを拠点として記録や手紙にいたるまで様々な資料を蒐集し、編纂したのが『群書類従』

である。また歴史史料の編纂にも力を入れていて『史料』としてまとめられている。

この『史料』編纂の事業は紆余曲折があったものの東京大学史料編纂所に引き継がれ、

現在も続けられている。同所の出版している『大日本史料』がそれである。盲人としても、

寛政7年(西暦1795年)には盲人一座の総録職となり、文化2年(西暦1805年)には

盲人一座十老となる。文政4年(1821年)2月には総検校になり、同年9月に76歳で死去。
墓所は東京都新宿区若葉の愛染院にある。

塙保己一は、学問の神であるとされた菅原道真と、身分の低い家に生まれて天下統一を

成し遂げた豊臣秀吉を尊敬していたという。
すでに学者として有名だった平田篤胤、安藤野雁も、保己一の門に入った。

日本外史を著した頼山陽も保己一に教えを請うた。

その他、保己一の弟子は、中山信名、石原正明、屋代弘賢、松岡辰方、長野美波留などの

有名な学者がいる。
あのヘレン・ケラーは幼少時より「塙保己一を手本にしろ」と母親より教育されていた

という。昭和12年(西暦1937年)4月26日ヘレン・ケラーは渋谷の温故学会を訪れ、

人生の目標であった塙保己一の座像や保己一の机に触れている。ヘレン・ケラーは「先生

(塙保己一)の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なこと」、

「先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう」と語ったという。

◎摩訶般若波羅蜜多心経に「智慧の祈願」を込める


天神様・菅原道真公も塙保己一も、ご生前に「摩訶般若波羅蜜多心経」で

「智慧増大」「智慧発達」を願ったのです。ですからね大学受験で湯島天神に行くのは

間違いではないのです。


以前に仕事に関係で湯島天神の近くに行きました。せっかくなので或ることの研究の

進捗の為にお祈りしたのです。するすると研究が進み、自分が納得する答えを得ることが

できたのです。しかし後でその反動のようなこともありました。そこには一つの因縁が

あるのです。「智がたてば角が立つ」ということで、誰かの反感をかうとか、

そういうことではなく、不思議な不都合が生じるのです。


「摩訶般若波羅蜜多心経」をひたすらやると頭脳明晰になってきます。

智慧増大を願えば、般若の智慧のお経ですから叶います。ですが、急速な回転は

危険を伴うのも事実なのです。


在家の生活をしている我々は、日常の中で修行してゆく。ゆっくりと馴染ませながら

やってゆくのが善いのです。それから徳を積むことも大切で、一番の積徳は、親孝行

です。あるいはご先祖様、親の御供養です。これで難は克服できます。


問題は「般若の智慧」がどんなふうに発現するのか、人間の物質的な体の構成と

不可視の体の構造をどう認識しているか、ということです。

(つづく)

ーーーーーーーーーー

〔『摩訶般若波羅蜜多心経 小経本 印施の募集』〕

来年2020年(令和二年)摩訶般若の功徳を込めた小経本を作成し、広く布施行を

おこないたいと思います。ご協力頂ける方を募集します。詳細は後日発表します。

kawashima.seitai@gmail.com までご連絡を。

川島徳慈しるす

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