特別講義(下)
【霊的護身の法としての禊ぎ祓い】
◎さかくじも神にしあれば
国学の先師にして泰斗、本居宣長大人は以下の一首を詠んでおられる。
「さかくじも 神にしあれば その道も 廣けき神の 道のえだみち」
どうですか、読者の皆さん。しっくりとくるでしょう。
さか、くじとは、お釈迦様と孔子様のこと。この二道の祖師(仏教と儒教の開祖)もまた神である、ということ。多くの人々に尊信せられあるいはまた、世人に稀な方である、これを神だと大人はいうのだ。
しかし、その外国から来た立派な道(教え)も、神の道だというのである。神の道は広くて、所詮そのような教えも尊いが、神の道の枝葉だということである。
ここの部分を読んで、わたしなどは外国の優れた霊法、たとえばゾクチェンなども、神の道であり、その一つにすぎないと考えられるようになったのである。
神の道の実践は、「清浄」である。祓い清め、禊ぎ祓いこそが、神仙(かみ)の道の神髄なのである。
◎禊ぎの神髄
清浄の実践の真ん中は「禊ぎ祓い」である。
この禊ぎには、河川・滝・海といくつかの場所で行なうものがある。
あるいは、便法として室内で行なうものもある。
根源の一霊のことを直霊(なおひ)というが、四魂のうちの「奇魂(くしみたま)」を操作することが大切である。
「九神に(自らの)奇魂の感げるための秘詞」「神仙使魂法」などに習熟しておく必要がある。「神通〇魂真言」など絶対に伝授を受けなければならないものである。
一つ秘密を明かすと・・・。
滝で禊ぎ行をする場合、まず由緒ある滝場で、それが川で海に繋がっていなければならない。さらに由緒ある淵がなければならない。
そこで滝行法をおこない、禊ぎをする。帰神術やその他お唱えを実践し、音霊法もやる。祓戸大神を念ず。
産土神を念じ、当所権現・神祇に祈る。
滝や川の流水を通じて海に至り、海神界(ワダツミカイ)に「〇〇符」などを密用して使魂する。
これがうまくゆくと霊夢などで海に至ることを体験するようになる。
「根の国・底の国」にて清めを行うのは、ハヤサスラヒメ。この神は須勢理姫大神と同じだと、本居大人は申しておられる。わたしもこれはそうだと思う。父神であるスサノオ尊は、はじめに海原を治めるよう言い渡された。その神の特性を一番受け継ぐのが須勢理姫大神である。
それだけの御神力あればこそ国津神の大神である大国主命を内助できるのだと思う。
真の禊はここまで感通の上、おこなわれなければならない。
※昨日のお滝では、西王母須勢理姫命に祈請して、禊ぎを実践した。まあ、これは宗像の神を祈請したことにも通じるのですが。
特別講義(中)
【霊的護身の法としての禊ぎ祓い】
◎霊注ぎ(ミソギ)張る霊(ハラヒ)
禊ぎとは「身削ぎ」でもあるが、「霊注ぎ」とも書す。
削ぎ(そぎ)とは「殺ぎ(そぎ)」に通じ、要するに滅することを意味している。
どうやってミソギするのかというと、先ず「濁っているものを出す」わけである。
身体内の濁りものを出してゆく。
神の道とは「清浄」だというのが、国学の先師;本居宣長大人の言われるところであり、まさしくその言に尽きる。
濁りものを出すと、同時に「太霊(み)」が濯がれる。故に「みそそぎ(みそぎ)」になるわけである。
どうやって濁気を出すのかというと、一つは余計なモノは入れないようにすること、押し出すわけである。
例えば「笑い」というものがある。笑いはハライに通じていて、暗い心を「笑い=(はらい)」によって、打ち消して外に払ってしまう。
祓い(ハライ)とは「張る霊(ひ)」であり、中からの膨張を意味する。膨張させるには、振動させることが肝要なのである。
「魂振り」というのは、ここから来ている。
気合などを伴った武術の型などは、まさしくそういうものであり、心を清浄化せしめる。
声を出し、振動させ、魂を振ってゆく。そうすると、それをやめたときに拡散から鎮静の方向に身も心も流れてゆく。ここに鎮心が成り、鎮魂し、太霊と合一する可能性が生じる。
霊水の流れに身をまかせて、「霊(み)=水(み)」を頂く、濯がれる。これによりて「霊灌ぎ(みそそぎ)」ができるわけである。
であるから、この霊水を「天真名井」から潅がれるところの「天の忍石の長井の清水と」観じることが秘訣である。
◎音霊法の秘説
この法は、先ず時計の音など単純な音をひたすら聴くことからはじめる。(※わたしはメトロノームでやってます)
正座をして、呼吸を整えて行なう。
出来てきたら、山に遊び、滝などの音を聴く。ただ聴くのである。
「橘の小門(たちばなのおど)」とは「大宇宙に遍満する大神の音声」のことだ。
次に、「観音経」の梵音海潮音。海の辺にて音を聴く。
さらに、音無き音、宇宙の音を聴く。
「耳注ぎ(みみそそぎ)」すなわち「みそぎ」。存在は振動であり、音にならない音なのである。宇宙の大神の声を「耳に注ぐ」。是れ真の「禊ぎ」である。
また、大切なのは印相だ。
左手の拇指の先端を臍の穴につける。小指は玉鉾(チンボコ)のあたりまでゆく。右手をその上に重ねるが、右の親指の先端は、左の親指と人差し指の股のところにくる。以上は男子。女子はその逆となる。
これを滝による禊ぎ行のときに行なうのである。
清浄になれば自然に高貴となる。
霊魂とは「霊=ひ=火」であるから自ずから上昇する性質をもつ。ゆえに高貴となる。
だから伊弉諾大神が「根の国・底の国」から帰還したときに、海にて禊ぎ祓いし、三貴神といわれる尊い大神がお生まれになったのである。
すなわち天照皇大神、月読尊(ツクヨミノミコト)、素戔男尊(スサノオノミコト)である。
太陽、月、海原を治めし尊い神々である。
禊ぎ祓いによって、畏くも天照皇大神がお生まれになったことを考えていただきたい。
禊ぎの神術というものは、巷間に出まわっている霊能、霊術、魔術とは次元の違うものなのである。
是れで「音霊法」秘説、一部分の解説を畢わりぬ。
※本当は、この神髄をば、まだ半ばも語っていない。早くすべてを語りたいと思う。
※五音(アオウエイ)は、五行が元であり、五色に通じる。水で清めて鮮明な光彩を放つが如き光りで身を包む。
※わたしは今日も滝にゆき「音霊法」を正確に修する。修道につき万事怠りなし。
- 2013.07.20 Saturday
- 00:00
特別講義(上)
【霊的護身の法としての禊ぎ祓い】
◎ダルマ・ビジネス
前回、前々回の記事に続いて、「霊的な護身の方法」について講義をする。
今回の講義の内容は本来ならば有料なのであろうが・・・(笑)
日の大御神や豊受の大神、産土神が講義料を請求するなどの話は聞いたことがない。
宮地神道の鼻祖の宮地常盤先生も、その「家訓」のなかで、次のように明言されている。
『読書博識を慢するの為に非ず 神随の大道を明らめ拡むる羽翼とすべし』と。
世を益するものを出すのに有料というのはおかしいし、まして商売っ気を出すなどもってのほか、言語道断だと思う。
仏教のほうでも、「ダルマ・ビジネス」という言葉がある。
ただ皆さんの志を集めて、お社・鳥居など建立する趣旨が明確なのであれば、受講費など請求するのは善いし、実費の部分はいただいてもさしつかえないのだと思う。
それ故に、わたしには人を選ぶ権利がある。心が曲がっている人物や知識にのみに偏るマニア的な知りたがり、無礼な者には出入りを禁ずる、お断りするという権限も有する。法を受けるのにふさわしくなければ自由に受け入れを拒否できる。
世の中なんでも金でカタがつくと思ったら大間違いだし、入会申し込みすれば何でも教われると思うのは勘違い甚だしい。志と理解、実践・堪忍がなければ本物を教えることなどできない。
会うことがなくたって、志はわかる。離れていてもわかるのである。たった一度しか会わなくたって志はわかるのである。人と人との出会いというのはそういうものである。
◎祓戸大神・音霊法の神術
さて、特別講義【霊的護身の法としての禊ぎ祓い】のお話だ。
「禊ぎ祓いの法」の根源は、伊弉諾大神が「根の国・底の国」から帰還したときに、海にて禊ぎ祓いしことに由来する。
死者の国(冥界)にゆき接することは、悪しき気を受けるということを言っているわけであり、喪に服するというのは、こういう理解からきているし、死者の為に霊格向上を祈るために是くするのである。
よくお葬式やお通夜から帰ったとき、家に入る前に塩を体に振り掛けるのは、この神事に由来しているわけである。塩は海の精だから、お清めの資とするのである。
伊弉諾大神さまが「根の国・底の国」から帰還し、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原にて、身滌・祓い賜ふたときに生じた神は、四柱の神であるという。
その四神は以下の通り。瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売。この神たちを祓戸四神といい、これらを指して祓戸大神と言う。
瀬織津比売(せおりつひめ) -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す
速開都比売(はやあきつひめ) -- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む
気吹戸主(いぶきどぬし) -- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ
速佐須良比売(はやさすらひめ) -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う
以上の祓戸四神の御神力によって、罪ケガレ・過(あやまち)・咎などを祓い清めるのである。
まず我々は、瀬織津比売(せおりつひめ)に感通しなければいけない。
滝なり河そのもののことを瀬織津比売と見て、「水灌ぎ(みそそぎ・みずそそぎ)」するのである。
できればお唱えする中心の詞は、「大祓詞」「天津祝詞」などがよく、「天津祝詞祓清太祝詞言(清祓秘詞)」を知る者は、これを修唱するのがよい。
「神を迎える時 祓う秘詞」も唱える。
「洗い去る ここも・・・・・」「榊葉に 絹取り・・・・・」等で、はじまる秘詞である。とにかくめでたき秘詞・秘言・秘印を密用してゆく。
先般述べた、「念の体」などがあっても繰り返し「禊ぎの霊法」を行なえば、洗い去ることができる。
特に「寒中」の修行が一番功徳があるとされているが、春から夏の時期には、「寒行」では出来得ない修道法がある。
それこそが、「橘の小戸」に由来する、「小戸=音」の法である。これは一般的には、「音霊法」と呼ばれているものである。
夏には滝などで、これを存分に行なうことができる。
わたしのところでは、大瀧霊境秘詞・清浄利仙君所傳『済世秘咒』・水道印咒等々を修唱する。
また「ア・オ・ウ・エ・イ」の『五音気合法』も行なう。
最後に「魂振り」「音霊法」「帰神術」などを修める。
- 2013.07.17 Wednesday
- 00:00
【霊光(オーラ)によって護身する】
◎正・霊的な護身の方法
前回の記事で、わたしは今回の天河行きを中止したことを書いた。
中止したのは、「或る理由」がある、とも述べた。
その理由に関してだが、それはズバリ人間である。
人間の持つ「念の体」というのが本当だろう。
例大祭などで天河神社の集い来る人というのは、スピリチュアル系とか霊能者とか変わった個人・団体が案外いるものだ。
近年は、ますますそういう傾向にある。
個人であれ、グループであれ、その中にわたしが会ってはならない者がいるのである。それは1名2名ではない。
実はわたしには既に見えているのだが、天河へ行くことを直前まで考えていたのである。
何故グズグズしていたのかというと、そういう存在をわざわざ避けるのが面倒だし、なんだか負けているような気がして、中止できなかったのだ。
だが、ご縁日だからといって変だと思っている人間たちと我慢して交わる必要はない、そうわたしは判断した。中止を決めてみると、とても心も体もすっきりして軽くなった。
こんなにはっきりわかるのも珍しい。その人物の顔貌もハッキリと見えている。
(※補足;17日早朝に夢中にその人物が出てきました!)
身を守る法は、どのような密教の法でも存在する。
霊術・霊法の類いで、「護身の法」がないものはないし、護身ができないようなら、その法は危険で意味がないものだ。
これ(護身の法)を日頃から簡単に修しておくと、このように危機遭遇の以前に回避することができる。
この方法は元素の色を使うものだが、そのまえにやっておく方法もある。
いわゆるオーラ(霊光)というものを使うのである。
密教に護身法があるが、これは効果がいまひとつアマイ。
道教の護身の法は、方術というべきものだ。
古神道とゾクチェンの方法の中に、一番お勧めの「護身の法」がある。
それは古神道の「護身神法」と、チベット密教の「五大浄化のマントラ修唱」である。
これは瞑想・黙想を含んだもので、綿密に詳しくやらないといけない。身をプロテクトするものである。
幽的に見てみると、人の念というものは、残留思念としてある期間残り、人に影響を与える。
一種の「念の体」を為していることもあり、その形状はタコやヘビのように絡みついているような感じなのである。
思っている以上に、人の念によって為されることは多い。自分で「大丈夫だ」と言っても解決しない場合だってある。
ときにすごい「念の体」を残している戦場跡などもある。
すでに数百年経過しているのに、その場所に来た者に悪影響を及ぼす。このような事実は厳然とあるのだ。
それらの「念の集積体」を避けるためにも、密教的な護身の方法を修しておくべきである。
次回は、おさらいの意味でその方法・技術について述べよう。
【天河大弁財天社の巻】
天河大弁財天社の聖なる石;「天石」
奈良県吉野郡の天河大弁財天社(天河神社)では、本日7月16日(火)と明日17日(水)に宵宮祭ならびに例大祭がある。
本日は「宵宮祭」であり、各種の奉納行事がある。
前回の巳年(12年前)には「宵宮祭」、夏の「例大祭」ともに参詣した。巳歳にちなんで行なったわけだ。
実は、これはK さんという篤信家のお誘いによってなったものであった。
天河神社の最大の神事が、夏の例大祭であり、大峯本宮というだけあって、奥駆け修行(修験道)の重要霊処(七十五靡の一)弥山山上から大弁財天がご降臨する縁日として制定されている。
日本四大弁財天の一つとしては、夙に有名であり、今回も参詣する方向で調整していたが、「或る理由」によって取りやめることにした。
予定を変更し、後日、ゆっくり参詣することにしたのである。
天河よりも「お伊勢さん」に再度ゆきたい。ゆっくりじっくりと内宮・外宮の御神前に居たい。そのような思いが強くあるのも一因である。
天河神社には、今日明日はゆけないので、かわりに些少の奉献(幣帛料)を送らせていただいた。
先の「或る理由」については、次回の記事に書こうと思う。
その「或る理由」が、次回のブログ記事に関係があるので、ここでは敢えて伏せておき、次回これを題材に書くわけである。
しかし、参詣に行くことができる方は、行かれたほうが良いでしょうね。
明日は、現地(天河神社)は相当に混雑していると思いますが・・・。
続・幽魂霊祭秘訣
【諸幽魂の合同霊祭をおこなう】
神の道をゆく者には、必ず行わなければならない徳目がある。
親孝行とかはもちろんだが、大雑把にいえば、「陰徳を積む」ということである。
陰徳とは、文字通り「陰の功徳を積む」ことである。
陰とは、「人知れずにおこなう」とか「人のやりたがらないことをやる」などだが、神仙(かみ)の道においては、「幽的な功徳を積む」ということになる。
幽的な功徳とは、幽冥界にいる霊魂をねんごろにおまつり(ご供養)することである。
対象の幽魂は、有縁・無縁を問わない。
たとえば「お盆」「お彼岸」などの時におこなうのが時機を得ていると思う。
通常の「お盆行事」などでも、その様式の中に神界から伝えられた教えが、ごくわずかだが散見されるからである。やはり、昔から伝えられていることには、何らかの意味があると思う。
科学とか現代的な知見のみで、すべてのことが割り切れるわけではないのだ。
自分の親族とか知人以外の、無縁の霊魂もご供養する、施餓鬼供養としておこなう。ここが「陰徳を積む」ポイントである。
わたしのところに来た方々には既に「霊魂の安鎮法」は教えてある。
教えに従い、時にふれて、霊魂・幽魂のご供養を行って陰徳を涵養していただきたい。
※本日、祖霊・三界萬霊(有縁無縁問わず)ならびに最近帰幽された霊魂(おみたま)を「幽魂安鎮の霊法」を以て、ご供養(おまつり)致しました。施法の前から、多くの霊魂が招来せられて集まってきたのをはっきりと感じました。個々の幽魂で安鎮したのは2柱(二躰)でありました。
※蓋し死によりて、五化魄に随いて形躰は消散すと雖も、善行は火気に宿り悪行は水気に泊りて、奇々百動し尚・幽冥中の苦楽に浮沈せねばならぬ霊的事実を顕界(うつしよ)にあって自由ある者が解かずして、どこに慈悲の心があるというのであろうか?
※「精霊流し」や「水に流す」という詞、禊ぎを海・川でおこなう事実。悪行は水に泊るのである。産土の大神に志心に皈命して幽魂の冥福を祈るべし。悪行は浄化され、神界のご神気を幽魂が享けること疑いなし。
正・幽魂霊祭秘訣
【お盆行事に思う】日本における霊祭(霊的な供養の行事)の中で、白眉なものは「お盆行事」「お彼岸」「施餓鬼供養」だと思われる。
仏教が渡来した功徳というのは、煩悩を滅するあるいは変化させるという教えを伝えたことと、慈悲の心を伝えたところにあると思う。
ものの本質が空性であることを打ち出したことも功績の一つだと思う。
そして施餓鬼の供養を伝えたことは、画期的なことだと思う。
実は、神の教えには完全な霊的供養の方法があるのであって、祖霊の御供養などは必ずしも仏教系統の法の専売特許ではないのである。
本来、人間には神の教えがあれば全てに対応でき、現実の世界でも、幽的な世界でも事なきを得る。
しかし、人間の生活が変わってくるにつれて、著しく悪しき行い(禍事)が増加し、それに対応する必要が出てきた。
その為に、仏教の教えなども渡来し、さらには「お盆行事」や「施餓鬼供養」などの霊的な方法が伝えられたのである。
この夏の時期に「お盆行事」があることは、決して偶然ではないし、8月15日が終戦になっことも霊的な背景があってのことだというのが、専門的な修道者の見解なのである。
- 2013.07.11 Thursday
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