- 2013.11.28 Thursday
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幽界での諸相
【秘図・天狗界の護摩供】
或る僊人が見た幽境の実相(護摩供の模様)
上図は或る地仙(僊人)が見た山中の幽界での諸相である。
幽境にはさまざまな界から、色々な種類の異人が集い護摩供を行っている。
祭壇の各供物はこの世のものではなく、供物皿としての高坏(たかつき)は現実世界では存在しないものである。
巨大な僧衆や普通の山伏、樹の近くにはカラス天狗と思わしき衆もいる。
人間が一代で修道・修行を積んだとて、そう簡単に天仙などになれるものではない。
せいぜい地仙までに成れたら上々である。
あの河野至道寿人ですら、地仙なのであるから。寿人は、生涯の最後に100日間の完全なる断食行を行った。そして97日目で絶命したと言われている。
実は、「仙」と化したのであるが、それだけの修道を積んでも地仙の仙境・幽境に入るのがせいぜいである。
死後には、秘図に示された異人たちと交流するようなこともあるので、そのときに備えて驚かないように心得ておかれるのがよろしかろう。
早朝3時〜4時の塩川などでは数は少ないがこういう存在が近くに居るということは、申し述べておこう。
そう、あなたのお経やご真言の読み間違え、心構えの悪さをむこうは見ているのですよ。
開発法としての気合術の秘訣
【不自惜身命・修道者たちと共に】
前日が誕生日だったY君 ケーキでお祝い
11月24日(日)この日も早朝からお滝による禊ぎ・気合の鍛錬を行った。
寒さという点では防寒したり、無用の我慢大会はしないように行っている。各自、その辺は心得ている。
行後、前回は「塩川カレーうどん」、今回は「塩川みそラーメン」を皆でいただいた。どれもプロはだしの味で,町中で営業しているおそば屋さんと同じ味である。
画像では揚げてはいないけれども、名づけて「塩川ちくわ天」というのがあって、これは「サクサクあつあつ」で「西のホットドッグ 東のちくわ天」という冗談がでるくらい美味です。
前日はY君のお誕生日であり、簡単ではあるがケーキで皆でお祝いした。
この12月初旬には、彼はご家族で伊勢神宮にお参りするそうである。これも兎にも角にも、修道・鍛錬を繰り返している功徳だと思う。
わたしも20年前の式年遷宮の時に、家族の大半が伊勢神宮にお参りした。行が進むと必ずそういう現象が伴うものである。
だが、24日(日)の修行はわたしにとっては厳しいものであった。体調が思わしくないのであった。体は一つしかなく、日々自分の生業の業務をこなして生活している。故に乱暴な無謀なことはできない。
だが、そういうこともわたしにとっては言い訳の一つに過ぎない。
修行においては、己の心に「怖気づく心」があるかどうか、ここが一番大切なところだ。言い訳はどのようにでも、何だって言えるのである。
こういう鍛錬をしたからこういうことを得られるとか、そういう類いの計算・勘定づくの考え・精神は、「正真の信仰」には無用のものなのである。
極論すれば、死んでもかまわない。禊ぎの行をただすることに意味がある、というように考える、これが修行というものである。わたしは今も昔もこれを貫いている。
そして自己責任をもって自認している。
各自も自己責任であり、それが指導の真ん中にある。
死ぬのが嫌ならば、そのように自戒し工夫すればよいのだ。
平成の大横綱・貴乃花が横綱昇進のときに、答礼で言ったのは「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」だったが、修行の場合には「不自惜身命(自らの身命を惜しまず)」となる。
これは法華経の経文中にある、有名な一句である、「一心欲見佛 不自惜身命(一心に佛を見たてまつらんと欲して、自らの身命を惜しまず)」から来ている。
たしかに玄学・神僊の道は、その課程が精緻であり、修道の階梯は微細に入り示されている。しかし、それを本当に実現するには「正真の信仰」が必要なのである。
それなくして、絵空事で高度の霊界(幽界)にゆけるわけがない。顕幽一致、この世のあとも継続しているのである。
わたしには体に関する遺伝体質的な因縁がある。これは誰にでもあり、例えば胃の具合がよくない親族が大勢いるなどというのがそれである。
修行の日の早朝(午前2時頃)に、実父や祖父の生活上のクセから為した業の種類、体に関連する病気の系統(まけ)、幽界での状態など、まざまざと感得するところとなった。
修道する上で、非常に追い詰められた状態であったのだが、「因縁を切る」には、やはり「水」が必要であり、「火」のエネルギーも欠くべからざるものなのである。これは理屈ではなく、行を積めばはっきりわかることである。
修行のはじめにお勤めをするにも体調が思わしくなく、まさに行者の名折れである。年には勝てないということか?などと思いながらも集中力を徐々に高めていった。
九字真法・神傳卍字九字を切って入滝する。
気合一閃!
こういう場合は、自分の内蔵、特に腹に向かって気合をかける。
短い気合で一瞬にして振動させるのである。
副腎の副腎皮質ホルモンなどの分泌を促すように声と念を一つにして気合をかける。気合をかけ意気揚々として不怖の心境になる。アドレナリンの分泌をさらに促すのである。
自分の体の中に、強力な自家薬を血液の中に流し込むのだ。
するとどうだろう、ものすごい回復力である。これが火事場の馬鹿力というものなのであろう。一気に回復して元気になるのである。
いわゆる※チャクラ、竅、キルコルというものの開発は、ヨーガ・気功・気術のような持続的な鍛錬と、今回のような一撃的鍛錬の2種類によって為されるのであろう。
竅・チャクラなどの開発のない、正しい修道はあり得ないのである。
※註)チャクラとは回転する輪のことでありインドの言葉。竅は仙道などで言う語、キルコルはチベットで使われている。共に同じ意味であり、人間の中にある潜在的な力の源泉といえる。また、人体中の内分泌腺と対応している。
- 2013.11.20 Wednesday
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修道の目的
【神僊の昇天 秘図を示す】
山中照道大寿神の昇天の秘図(明治9年7月7日吉野山中)
上の秘図が先般ご紹介した※神僊・※山中照道大寿神(やまなかしょうどうだいじゅしん)の昇天の図である。
※註)神僊は神仙。照道大寿神は照道大寿真とも照道寿真ともいう。古い書には照道大寿神と表記されている。
絵図のむかって右下にひれ伏して拝する人物がいるが、これがこの事実を伝えた弟子の※河野至道寿人(こうのしどうじゅじん)である。
※註)本名は河野久。大阪府出身。
右上には吉野山中の神僊の寓居(洞窟)が見え、巻物や経典のようなものも置いてある。
また神僊は牛(牛車)に乗って天に昇られている。
これは北天へ昇っていることを示し、ここにも一つの教えを示唆的に遺されているのである。
この山中神僊は、大和ノ国の某神社の神主であった。
※応永初年に生まれ、齢四十有余才にして山に入ったという。
※註)応永初年(1394年)。この年に禅宗の傑僧・一休宗純が誕生している。
時は足利義満が剃髪した頃。仏教の勢いますます盛んで、神の道を軽んじる輩も多くあった。
大寿神は、悲憤慨嘆し、深く山に入った。
幸い富士山に住む神僊にまみえて遂に功成り、吉野山中にて昇天したのである。
このことにつき、わたしは一家言もっている。
今後はここを出発点・骨子にして修道を進めてゆきたいと思う。
修道の目的とは何か?
どのように「成仙」するのか?
やはり見るからに人品卑しく、話をしても、まともな話ができない。
そういう「成仙」した人物になることを我々は目指さない。
陰ながら道を修め、国を思い、国王を尊重し、人民の幸せを願う、心の底から自然にそんな思いが発露するような人間になってゆくこと。そう志向すること。
同時に不抜の修道・道力によって、この世で「成仙」する。
これを成し遂げるのがわたしとその弟子一門が為すことである。なんら特別なことは何もない。
もちろん簡単なことではない。だが最もわたしが尊敬する先師は「成仙」の方法はいくつもあるとお説きになっている。
この世で権胎化作できたら、もう充分な果報である。いや、その糸口が見つかり正真の信仰に会い、それを信じることが出来たら、もう幸いである。
来月から講座を復活・開講する。
恩頼
【神僊の遺した祝詞を得る】
二日前の美しい夕焼け(富士山を望む)
さっそく神僊の感応がはじまっている。
すでに大司命節の開けから多くのことを得ている。
不可思議なことが続いている。
功が成る、といい仙仏界のほうでは「功徳の積集(くどくのしゃくじゅう)」とも言うが、そういうものなのであろう。
ある時期から飛躍的に伸びるのが修行・修道というものである。
わたしについてきている方々は、同じく大いに進捗することになる。
二日前の夕焼けのときに、雲の傘を被った赤富士をみた。とても美しかった。
来る年明けのお正月には和服を着ようと思いたち、家紋の入った紋付の羽織を手にした。
不思議なことに、その着物の裏には富士山の絵が描かれていた。
また同日に、昨日或る神僊(地仙)について書かれた古い書籍を得て、その中には長年求めていた、天照皇太神のご神名からはじまる祝詞があり、それを手に入れた。
わたしと共に滝行気合・禊ぎ行法をやっている諸君は、修行の仕方の大きな変化を感じているし、得た祝詞の意味がわかると思う。
この神僊(地仙)の師匠は明治時代の初期だが、吉野山中から天僊に昇進したという大寿神である。
この系列に連なる祝詞を得たというのは大いなる恩頼である。
普通の人間が書いたものではなく、「仙」を得たものが生前に唱えていた祝詞に結縁できるというのは、大変なことなのである。
この地仙までに至った仙人は河野至道寿人という方であり、師匠は山中照道大寿真という方である。
師の山中大先生は、地仙として長きにわたり修道し、一度は富士山の僊界にて功を積まれたと聞く。
富士山にまつわる事どもに接し、この一文を書くことにした。
禊ぎに勤しむ修道者からこの祝詞をお授けしよう。
11月17日(日)も早朝から滝行気合・禊ぎ行である。
改訂版・開白
【冬季の滝行禊ぎがいよいよ始まる】
開白にあたり護摩供で御神霊に挨拶をする(塩川にて撮影)
平成25年11月10日(日)より、冬季に向けての「滝行禊ぎ」がはじまる。
修行の開始は、「開白(かいびゃく・かいはく)」ということを古来常とする。
修行の終わりは「結願」という。
先ず、はじめに「誓願」がなければならない。
いつも言うことだが「誓願」がないと「魔事」を生じ、悉地成就(しっちじょうじゅ)できない。「信」というものが円通することができないのである。
今年度のお滝の修行は、「寒」の時期に盛んに行ないたいと思っている。
やはり「寒の行」は功徳があると昔から伝えられているからだ。
こういう寒い時期の修行は、理屈ではない。柴燈護摩供もやれば御真言もお唱えする。
神の法は重要視していても、一段の護摩を焚かなければ、身体がもたない。
熱というものを体感する。火から熱というもの得る。この体験は修道者として非常に重要だ。
このことの内容については、滝行禊ぎの実践者に口伝しようと思っている。
それと今年の「大司命節」において、神祇に通じるところの「不動明王秘法」の秘密観想法を得た。
これはある時、わたしの頭の中に長い文章の文字として、脳裏に浮び、流れ入ってきたものである。
それを後から再生して、文字化し、確立したものである。
非常に魅力的な法で、かつて真言密教にも口伝であったものだと思うが、こんな法は、いまの世の中の何処にも存在しない。
オンリー・ワン。完全なオリジナルである。
この秘伝の観想法も伝授することにしたい。
先般「開運祖霊祭祀法」を伝授したが、この法をさらに強力にするのが「不動明王」「愛染明王」を念ずる法であり、わたしが今回感得した秘法は、それらの更に更に奥の法なのであり、不動明王最奥秘の観想法だと言えよう。
この法はあきらかに御神霊から授かったものである。
なぜならば、わたしは先祖伝来の不動明王の前で産まれたのであり、お不動様とは深い仏縁があるからだ。実は、塩川の大瀧は、その昔の修験者たちにより、「不動の滝」と呼ばれていたのである。
※今回のお滝から明らかに冬の水温を呈し、杜の落ち葉が一斉に舞い落ちる光景を目にした。散華が雨の如く降るようであり、塩川ではじめて見た景色であった。
※本日はいつものメンバーに加えて福島からの若々しく礼儀正しい真面目な青年のご参加があった。一人でも何かを感じて真面目に参加する人がいればよい、わたしはそう思っているし、会もそういう方針で運営されている。
さあ、寒行の開始である!
大司命節
【幽政の大秘事 大司命節終了!】
畏くも(今年の)幽政上の一大秘事『大司命節』が、平成25年11月8日(金)、本日を以て終了する。
昨日の11月7日(木)は、立冬であり、暦の上ではすでに冬だ。冬は、増ゆに通じ、恩頼(みたまのふゆ)に通じている。
まさしくこの時期に「大司命の幽事」が終わり、顕幽各界の諸霊魂(みたま)が司命の神々の恩頼(みたまのふゆ)を受けるのである。
しかし、先月9日の開白からもう一ヶ月が経ってしまった。
「大司命祭文」に、「八十日日(やそかび)ハ在ドモ(あれども)」とあるが、ようするに「一年数多くの日があるけれども」という意味である。
「八百萬ノ神(やほよろずのかみ)」 という場合もそうなのだが、八という字の使い方は、大変多いことをあらわしている。
まあ、非常に特別な期間なのである。
だが、大切なことは日常なのである。祖霊の霊魂を救いたい。もっと高い霊界に遷移していただきたい。こういう気持ちは子孫として当然である。理解できる。
だが、どうしてAならAという幽界に、その祖霊は居るのであろうか?
それはその祖霊の徳分の応じた結果なのである。生前に為した行為や心根によって、ゆくべき幽界が決まるのである。
だから幽界の住居区を遷移するなどというのは、そう簡単なことではないのだ。
大司命祭文には、どうすれば良いかが表現されている。
「道ノ士等ガ(まめひとらが)功徳有ルヲ挙ゲ(くどくあるをあげ)」と明記されている。
「積善功徳」がものをいうのである。
本日、大司命節は終了しますが、すでに次の大司命節が始まっていると思わねばならない。
大節は、結果を出す総決算の期間なのであって、本当の救い、救われる元(タネ)は、日常のあり方(積善)にあるのである。
最後に・・・。
今回、奇しびなる秘法・功徳・祈祷によって、多くの霊魂・幽魂が安楽を得たと思います。
当会は野中操法研究会発足からすでに5年が過ぎ、6年目に入っています。
また大司命節の祈りは、皆さんとご一緒しているのは、本年で4回目。
毎年回数を重ねている方々は、何かの変化や傾向を自然に認識していることだと思います。
言い伝えにはないことも新たに発見していることと思います。
おかげさまで「大節」におけるわたしの祈りは無事完結いたしました。
すべてのご神祇(司命の皇神)・先師先達・多くの人々に、この場をかりて御礼申し上げたいと思います。
天地自然福智の会(あめつちしぜんふくちのかい)
代表;川島金山 謹んで記す
大司命節・閑話休題
【超かわいい〜!!童女】
大司命節ですがちょっと休憩です!
わたくしは「未来のある子供達」のために祈ります!
しかし超かわいい〜ですねー!!脱帽です!
一体誰でしょう?
かつてこの子の「奉告祭」をやったことがあります!!
おじいちゃんはすばらしい「爺ばか」になられています!?
すばらしいの一言です!
大司命節・祖霊祭祀
【霊格向上・追冥福の霊祭典を執行す】11月4日(月曜・振り替え休日)、大司命節における「祖霊祭祀」の祭典儀式を行う。
【霊格向上・追冥福の霊祭典】と銘打つ祖霊の冥罪過消滅・霊界遷移の祭典である。
人(霊止)は死後、産土の大神の坐す、幽宮に趣く。そこで大神の慈悲により「修祓」を受ける。
その後、さらに産土神の取成しによって、「地津出雲幽宮」に連行され、生前の詳しい取り調べ裁定を受ける。正式な裁定実施までの間は約50日間。
この秘幽事が、仙佛界のほうに訛伝して「四十九日中陰」というものができたのである。
たとえそれが「アビダルマ倶舎論」のような精緻な仏教教学によっている説だとしても、実際のところは正神界から出伝されたものなのである。
ちなみに仏教では輪廻転生を説くのだが、すべての人が転生するわけでもなく、まして人として再生するわけではない。
引き上げられ重要な役に就く霊魂もあれば、分解されてしまう魂霊もある。
死の直後には、子孫のご供養などもあり、霊魂が救われるチャンスが多くある。
だが、この大司命節という大節に、子孫が行なう霊祭こそ、霊格向上・冥罪過消滅の一番の機会であるのは、玄学を奉ずる多くの者が知る事実である。
だが、残念ながら一番下位の霊界に住する霊魂では、霊祭典を施行して、自らを供養して霊格向上を成し遂げることはできない。
それは唯一、子孫によってのみ為されるのである。
生きている人間の場合は、自分で修道することが肝要であり、当然のことながら男女の修道には違いがある。
世の中には、何か勘違いして、タントラ(房中)と称して道から大きく外れ、邪の道に足を入れている者もあるが、害こそあれ利(理)はない。
体が知らずに傷ついて取り返しのつかない事態になるのは必定である。
だからすべてのものには「仕方」があるのである。
本祭典の執行には、手箱神山・筒上異境ヶ原の登拝修道の弟子が主に参加する。
その他こちらからご案内させていただいた方々も参加する予定である。
当然、「御霊璽謹製」による祖霊家祭祀も受付致し、皆さんで衷心からなる、霊魂安鎮の祈りを行なう。
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