延命十句観音経の大功徳(55)常楽我浄⓫涅槃界に至る

  • 2020.04.30 Thursday
  • 00:00

延命十句観音経の大功徳(55)「仏法僧縁 常楽我浄」⓫


涅槃界に至る



◎入涅槃と涅槃界に至るの違い


「常 楽 我 浄」は「涅槃の四徳」という。

そこで涅槃と涅槃界の違いについて述べようと思う。仏教では修行の段階・階梯を

四沙門果として説く。原始仏教・アビダルマ仏教で説く成仏の階梯である。四双八輩ともいう。


◉四沙門果は、

〕体一来I坿圓佞欧鶚ぐね經


◉四双八輩は、

それぞれに向こう(向かって修行する段階)と果か(到達した境地)をたてる。

〕体向は三界の見惑(八十八使)を断じ、第十五心までをいい、この境地を見道という。

第十六心で修道に入り預流果となる。ここに達すれば、もはや三悪趣に堕ちることがない。

0賤荼は欲界の修所断の九品のうち、前六品を断ずる位で、

ぐ賤莢未話任現わった境地をいう。

ド坿垳は修所断の残りの三品を断ずる位で、

ι坿垈未話任現わった境地。ここでは、再び後戻りすることがないので不還という。

Оね經糎は阿羅漢果にいたるまでの位。ここまでの境地を修道という。

┛ね經漸未聾惑、修惑をすべて断じた涅槃の境地でこの境地を無学道という。

南方仏教の『清浄道論』では「戒・定・慧」という三学で説明し、その深まりによって

順に四段階に進むという説を立てている。


不還には「五種不還」が、上流般涅槃、中般涅槃などがある。

涅槃にも、お釈迦様のように、生きていて仏陀になられたお方は、有余依涅槃といい、

まだ肉体がある状態。おなくなりになることを涅槃に入るとも言いますが、

お釈迦様がおなくなりなって「無余依涅槃」という。これが完全な涅槃です。


四双八輩の 銑Г泙任蓮⌒載儚Δ箸いΔ海箸砲覆襦

生きて涅槃界に入ることができたら大成功です。仏者としてはこの上ないことです。

「預流」になれば、別名「七来」と言われるように、この世と天を七度往来して、

涅槃に入ると言われています。



◎菩薩の「不思議変易生死」


菩薩になりますと、もう自分の涅槃なんかではない、すべての衆生の涅槃を思い続けて

何度でも戻ってくる。これを「不思議変易生死」と言います。「勝鬘経」に説く、

「変易生死」とは、菩薩の転生のことです。その代表がダライ・ラマ法王猊下です。


私なんかも「授記」されています。

あと最大で「◯回の往来」だそうです。もっと短くなるかもしれないし、

気まぐれだから、もっともっと長い期間、娑婆に戻ってくるかもしれない(笑)

でも、「菩薩は耐えて涅槃におもむかず」が本誓なのです。


涅槃界に入るには、「見惑88」「修惑20」合計108 の煩悩をなんとかしなきゃ

いかん。これは誰かが切ってくれるものでもなければ、他人が介在できるもんじゃない。

すべては自覚だけです。


准胝尊の真言唱えて、善行積んで(その団体の言う行為)やって、それで「七来」に成れる

などとうそぶいている邪教がありますが、そういうのは外道ですから(質の悪い外道)、

絶対にマネはしないでください。そんなことで、「見惑88」を断つことなどできません。


「四諦の法門」に通暁すること、この一点です。

「正見」を得る、これが勝義です。私に言わせれば、本当に「帰依」「発菩提心」できれば、

それで成仏の果徳が得られます。もちろん帰依の対象、本師は「観世音 南無仏」です。


(ナウシカの背後に注目!胞子の形が…)


◎風の谷のナウシカの愛


宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」を観ました。私はDVDのコレクションを観るのが

趣味なのですが、ナウシカも時々見ます。今日もそうでした。


ナウシカの優しい心は、動物たちや村人、敵にすら向けられる。腐海の猛毒の植物にすら

理解を傾ける、その叡智、深い愛情と勇気。

一匹の虫を大切にする。命というものへの畏敬と愛。


アニメの中の姫君ですが、現実にこういう方に会ったら、私はひれ伏しますね。

一匹の子供の王蟲を助けることが、すべてを助けてゆく。腐海に呑み込まれし

「大地とのむすび」を取り戻す。


「やがて人々を清浄な地へと導く」という預言の成就。

城の地下の「秘密の部屋」で、辺境随一の剣士ユパに語られる、「腐海の植物の謎」。

やがてナウシカは、腐海の奥深くにある「浄化システムの神秘」に辿り着く。


もう泣けて( i _ i )泣けて( i _ i )号泣です。

いつも同じで、老齢で涙腺ゆるんで(笑)


本当の菩薩は、すべての生きとし生けるものへの慈悲・慈愛、ものごとへの勇気、

すべての事象への理解(叡智)、こういうものを持ち合わせているんです。

こういう観点から、今の現状、新型コロナ感染について考えてはと思うのです。


さて、我々は大慈大悲観世音大菩薩に見守られています。

涅槃界は、あなたの眼の前にあります。では、「観世音 南無仏」をやりましょう。

【延命十句観音経】

観世音  南無仏

与仏有因  与仏有縁

仏法僧縁  常楽我常

朝念観世音  暮念観世音

念念従心起  念念不離心


では今日はここまで。
合掌
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◎新型肺炎コロナに対応する対応の『観音功徳聚』

→   http://shizenfukuchi.jugem.jp/?day=20200410  (ここでご覧になれます)

※ 葉衣観音(葉衣仏母)のマントラ。延命十句観音経などの集成。

◉ 葉衣観音  オン ハラナ シャバリ ウン ハッタ (八葉印)
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川島徳慈 記す

延命十句観音経の大功徳(54)常楽我浄➓延命という観点から

  • 2020.04.29 Wednesday
  • 00:00

延命十句観音経の大功徳(54)「仏法僧縁 常楽我浄」➓


延命という観点から「浄徳」



◎「延命浄徳」の功徳を廻らす


「観音の四徳(涅槃の四徳)」としては「浄徳」は、まさに涅槃の徳です。

自性清浄の徳である。密教の護身法(浄三業)に「一切諸法は自性清浄なるがゆえに」

とあり、これは「一切諸法は空性である」という意味です。


勝義諦の「浄徳」は、清浄も不浄も超えたものである。そういう意味での「真の清浄」、

それが「浄徳」。だが世俗諦の「浄徳」は、「衛生・清潔・消毒」も含めた、

心身の浄らかさである。この徳をいただける。


「延命」に特化している点も「十句観音経」を考える場合、大切な点である。

確かに「涅槃の四徳」ということもあるが、延命を与えてくださる、そういう経典

なのである。


勝義諦、世俗諦共に「常楽我浄」の四徳があり、いまの時代にふさわしい経典だと

いうことができる。


◎神は乗り越えられる試練しか与えない!


いまテレビの再放送ドラマがさかんに放映されている。

摩訶不思議なドラマ「JIN 仁」。これが時節に応じ、タイムリーに再放送されている。

このドラマの詳しい内容は分からない。私は通して見たことはないのだ。

但し、江戸時代末期の激動の世を動かした志士たちが登場する。

主人公の若き医師は、江戸時代にタイムスリップして、多くの人々を奇跡の医術で

直してゆく。やがてペニシリンまで生成する。



様々な葛藤や希望を抱えながら、壁にぶつかり、一つ一つ障壁を乗り越えてゆく。

そういう一連の物語りの中で、私は次のセリフに感動した。


「神は乗り越えられる試練しか与えない!」


である。痛みも、すべてが必要な試練であり、越えられないものはないのである。

私はこう思った。


「常楽我浄、すべては乗り越えられる試練なのだ!」と。


皆さん、延命して延命して、新しい時代を夢見ましょう。

これから人類は宇宙に出てゆくでしょう。それにふさわしい特性を人類は持たねば

なりません。


目先の楽しみのために奥多摩に繰り出したり、藤沢の海岸に押しかけてはダメです。

韓国の狂信的な宗教のように、集団で拝んでもコロナ感染は解決しません。

韓国でも、日本でも狂信的な宗教はあるのです。これらの人々は宇宙時代の特性を

備えていません。コロナ感染は、人間の感情体のコントロールを示唆しています。

政治家に対して、自治体に対して、会社に対して、感情で考え、感情でものを言っても

問題は解決しません。


我々は、「観自在の菩薩」になるのです。

「摩訶般若波羅蜜多」に通じ、深い智慧で物事を考え、対処してゆく。

結果「すべては越えられる試練」 なのです。


では今日はここまで。

合掌
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川島徳慈 記す

延命十句観音経の大功徳(53)常楽我浄❾延命という観点から

  • 2020.04.28 Tuesday
  • 00:00

延命十句観音経の大功徳(53)「仏法僧縁 常楽我浄」❾


延命という観点から◆峅翔繊



◎「延命我徳」ということ


ここでは延命十句観音経の「延命」という観点から「観音の四徳」を考えてみたい。

昨日の記事では、延命という観点からの「常徳・楽徳」について述べました。今日は

その続きです。


「延命我徳」ですね。

延命という角度・観点から「常徳」を考えると、「常住」という言葉が出てくる。

「(常に)生きて住する」ということ。生き延びて「常住する」ということになる。

「徳」というんだから、そういう功徳をいただけるわけです。


では「延命の我徳」っていうのは何のことを言ってるのだということになる。

仏菩薩の教えでは「我(が)」という。「われ」とは言わない。だが、仏様の教えでは、

勝義諦と世俗諦があって、勝義諦でいう「我」は、我見・我愛などの煩悩を指すわけですが、

世俗諦では、まさに(性格的に)「我が強い」ということになってくる。


病気などになった時には、当人は我れを失う。通常の精神ではいられなくなる。

「平常心」ではなく「病状心」になってしまう。冷静な我れを保つ、そういうお徳が

いただける。


この「我れ」の中には、自分の生命力も含まれる。観音菩薩の「四徳」には、本能を

賦活することも含まれるのである。観音菩薩の本身は、阿弥陀仏でもある。

阿弥陀仏は、無量寿如来とも言い、無量寿を与えてくださる仏様なのである。

アミターバー、アミタユスともいう。実際に「グル・アミタユスの修行」で、130歳以上

生きていたチベットの師匠もおられたのである。生命力を高め保つ方法や、医療・薬草・

丸薬などに縁ができるということも含まれる。



◎チベットのチューレン


チベット医学の「チューレン(bcud len)」は一種の延命の功徳薬だと思う。

チューレンにも世俗的な理由と、勝義諦的な理由がある。

イェシェー・ドゥンデン先生の「チベット医学 身体のとらえ方と診断・治療」から

引用してみよう。


『医典はチューレン薬について、その「効能」、薬に関連して行なうべき「儀式」、

「儀式を行なう場所」、「基盤(儀式をとり行なう人の体)」の四つの観点から説明して

います。チューレン薬の摂取も含む儀式をとり行なうことの効能は、長寿を得られること、

若返り、老化の防止です。』


老人は三体液のうちの「ルン」が優勢になるので、六十歳近くになったら、強まるルンを

克服する術を利用しなければいけない。その方法は食物の摂取の内容である。


チューレンは儀式を伴う。それは人里離れた場所がよい。土地神の供養、それは

「サン(柴燈護摩供)・セルキェム(二段供養杯)」を行なうことである。


チューレン薬の作り方としては、指定された成分を煮詰めて、成分が変化するまで

やり、砂糖・乾燥蜂蜜などを加えて完成。丸めて丸薬にする。

儀式の要は、観想とマントラ念誦で、自分自身を本尊として生起し、薬は本尊の光りに

溶け込んで、甘露の丸薬に変化する。



さらにイェシェー・ドゥンデン先生の言葉です。

『チベットでこの行に成功した人は枚挙にいとまありません。老いても再び若さを取り戻し、

百三十歳か百五十歳まで生きることができるのです。』

『マチク・ラプドゥンの転生者であった女性は百八十歳まで生きました。彼女が亡くなって

まだ二十五年しかたっていません。彼女は食物がわりにチューレン薬をとっていました。』


私もラマから「チューレン」エキスの煮詰めたジャム状のもの頂いて所持していますが、

それはジャムの瓶ほどの分量であり、たくさん摂取することはできません。但し、

その製法は知っています。方解石・ヒノキなど…。水は3000m以上の山から採ってきた

「雪」を使うのです。幾つもの成分を煮詰めるのですが、雪が手に入らない。いずれ

コロナが終息(収束)したら、彼の地に行って大量生産できるようにしたいという夢も

あります。できれば、「延命十句観音経」「葉衣観音マントラ」の功徳を込めた丸薬を

サプリとしてお分けしたいわけです。


では、今日はここまで。

合掌

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延命十句観音経の大功徳(52)常楽我浄❽延命という観点から

  • 2020.04.27 Monday
  • 00:00

延命十句観音経の大功徳(52)「仏法僧縁 常楽我浄」❽


延命という観点から 崗鐺繊Τ敍繊



◎延命という観点から「仏法僧縁 常楽我浄」を考える


ここで「延命十句観音経」の「延命」という観点から「仏法僧縁 常楽我浄」を考えて

みたいと思います。


元々、延命十句観音経は「十句観音経」と呼ばれていました。唐の国では、「高王観音経」

と呼ばれていた。もう少し長編の経典に「高王白衣観音経」というものもあり、この経典も

功徳のあるお経です。特に観音菩薩の如来(仏陀)としてのお名前が明記されている。

前にも述べた「普光功徳山王佛(如来)」という御名です。


観音菩薩を信仰していても、御本身の如来名を知らないということでは不完全です。

組織で言ったらCEOだ。一国の王様である。よく時代劇にあるでしょう。黄門様とか

暴れん坊将軍とか、本当の身分は将軍とか副将軍なのに、町人や旗本の三男坊に「化けて」

漫遊して、民を救ける。まさに「化身」です。観音菩薩様とは、そういう存在です。


◎「延命常徳」とは


「観世音 南無佛」と心から帰依し、懺悔し、菩提心を発起すれば、直ちに寄り添って

くださる。そういう存在です。ここでは、延命十句観音経というのですから、

「延命」ということに特化している。


その特化したところの「常楽我浄」である。

延命からすれば「常徳」とは、この世に「常住(じょうじゅう)」できるということである。

この命というのは、とても儚い。このところの新型コロナ肺炎で、有名人のお二人が

お亡くなりになられた。

一人は、志村けんさん。

もうお一人は、岡江久美子さん。

超有名人だ。これは日本人にとっては相当ショックな出来事だと思う。


しかし変質・変化にショックは必要なのである。この大きなショックがあって

はじめて次の備えができ、多くの教訓を得て、進歩してゆく。哀しいことだが、それが

世の常なのである。

有難いことに「延命常住の徳」がいただけるのである。


◎「延命楽徳」がいただける


「延命楽徳」の功徳もいただける。

病いや、身体の不調は苦しいものだ。痛みは苦しいのだ。身体の様々な感覚を

「菩提心」と統合することで、自然解脱という境地に至る。自己解脱ともいう。

そんなものは無いという方もいるが、これは間違いなくある。飴玉をなめれば飴玉が

分かる。これと同じだ。味わえば分かる。


だが、「痛み」を統合することは、激しすぎて難しい。よほど修行が進んでいないと、

難しいのだ。痛みの感覚は、実は「密教の楽」の感覚、体験と同質なのである。

痒みと痛みは痛覚であり同列なのである。痛みは、強烈なお知らせなのである。

危険だぞという。だから絶対に必要なものなのであるが、本能的に痛みは嫌だから、

避けたい、除きたいと思う思念がまさる。つまり「二元論的な見解」に陥るのである。

「天心」でいれなくなる。


観音菩薩は、「延命楽徳」を与えてくださる。

楽になれる、延命するということです。但し、病には「治る病」と「死病」がある。

これを言われたのは、野中操法という整体法の名人、野中豪策先生という方である。

「死病」になっていなければ「治る」ぞと。人にはそれぞれの寿命がある。生まれ持った

命の長短がある。だが、この人は養生したり、医療をうまく施せば助かったのではないか、

そう思うと、人は惜しいというのである。すべては少しの「運」なのである。


世に「楽は苦の種、苦は楽の種」とあり、この観音菩薩の「延命楽徳」は、「苦楽」を

超越した楽徳なのである。



◎葉衣明王(葉衣仏母)の法を伝授する!


少し前に、葉衣観音(葉衣仏母)の「内観的護摩法」を伝授しましたが、

今回の伝授は、それを更に強化します。こういう事は普通は面授で行なう、「面授口訣」

と言いますが、密教ではありえないことです。


でも今、志ざしのある行者が、やらなかったら何時やるというのか?

行き過ぎかもしれないが、あえて強力な法を新形態のサンガから伝授しようと思う。

市井の密教行者の方々は、それぞれがこれを取り入れて、葉衣仏母の大功徳を廻らして

いただきたいと思います。


いま私の地元 横浜でも、妙な事件が多発し、市街は救急車が走り回っている。

世の中は殺伐としてきている。自分の内部に目を向ければ、全く問題がないし、

研究に時間を使えば、日頃できなかったことができる。自分を錬って錬って、

高めてゆくことができる。



さて、葉衣観音は葉衣仏母であり、葉衣明王とでもいうべき尊格である。

『葉衣観自在菩薩経』に記されている諸法は、葉衣観音から葉衣仏母、更に葉衣明王と

いうべき「吒枳王」と成って行うのである。吒枳王とは、愛染明王とも降三世明王だとも

伝えられている。葉衣観音の忿怒相が「吒枳王」であるということでよいと思います。

「葉衣吒枳明王」だ。この尊に変化(へんげ)して、護符を加持したり、結護の法を為す。



【葉衣仏母(葉衣吒枳明王)】


〔真言〕 唵  吒枳  吽  弱  ( オン ダキ ウン ジャク〕


〔本当の読み方〕 オン ダキ フン ザー


〔印契〕降三世明王印


〔口伝〕マントラの「オン ダキ フン ザー」は、フンを「ホーン」に近い発音だが

「フーム」。「ジャク」は「ザー」。これもザーの中にジャクがある唱え方で。

印は降三世明王の印。さらにその印で薬指を立てる仕方もあり。

この印は密教行者特有の結びである。

この印明を用いて「内観護摩法」を行なう。

一番の秘訣として、「葉衣観自在菩薩根本陀羅尼」をたくさん念誦して、(小咒も)

法界加持力(法力)を身につけて行なうべし。


では、今日はこれで。

合掌

ーーーーーーーー

◎新型肺炎コロナに対応する対応の『観音功徳聚』

→   http://shizenfukuchi.jugem.jp/?day=20200410  (ここでご覧になれます)

※ 葉衣観音(葉衣仏母)のマントラ。延命十句観音経などの集成。

◉ 葉衣観音  オン ハラナ シャバリ ウン ハッタ (八葉印)
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川島徳慈 記す

延命十句観音経の大功徳(51)常楽我浄❻聖木パルナ樹と護摩

  • 2020.04.26 Sunday
  • 00:00

延命十句観音経の大功徳(51)仏法僧縁 常楽我浄❻


聖木パルナ樹と護摩



◎聖木パルナ樹は火天に成った!


葉衣観音は、胎蔵曼荼羅 蓮華部院北側、最上段に位置する、

尊名は、被葉衣菩薩(パルナシャバリー)だ。
パルナは「パルナ樹の葉」、シャバリーは「シャバラ族の女性」を意味する。伝統的には

この尊格の梵名は「パラーシャヴァリー」(パラーシャ樹の葉を纏うもの)とされてきた。
パラーシャは、「ハナモツヤクノキ」(和名)という学名の、マメ科の高木である。

ヒンドゥー教では聖木とされ、祭式などにも用いられている。ヒンドゥー教神話では、

「アグニ(火天)」が、シヴァ神の明妃パールヴァティによって、この樹の姿に変えられて

しまったとある。この樹の花は確かに火炎のようにも見える。


後期大乗と言われる「秘密仏教(密教)」は、婆羅門教やヒンドゥー教などの祭祀を

取り入れて出てきたものである。その祭祀の真髄は、「ホーマー(護摩)」である。

護摩は「火祀」とも言うが、護摩を除いて密教というものはない。


護摩の実践において、大切な尊格は何と言っても「火天(アグニ)」である。

そのアグニが、パラーシャ樹(パルナ樹)に変じたというのだから、この神話が密教にとって

如何に重要か分かるであろう。



◎パルナ樹葉は護摩の供物でもある


護摩法において、欠かせないのが壇木・乳木で、法によって壇木の種類が変わる。

法によって変わるだけでなく、地域(国)によって当然変わってくる。植物の群生が

違うわけだから当然だ。


護摩の壇木は本来「ウルシ科ヌルシの木」である。だが日本では「ハゼの木」である。

縁起の良い木なら何でもいいのだと思う。壇木だけでなく、葉や花を供物としても

用いる。地域・国によって、調達できないものもあり、その地域の密教僧(熟達者)に

よって改変され制定されたのであろう。


20数年前に、インド・ネパール・チベットと前後数回で約1年間、私は巡礼や修行を

行った。当時は、見るものすべて新鮮で、単身持ち物すらないような法旅であった。

護摩供の儀式も、チベット密教の各派、ボン教、ネパール密教(仏教)、ヒンドゥー教と

いろいろな祭儀を見ることができた。幾つかはお手伝いなどもさせてもらった。


ネパールなどでは、お祝いの席でホーマーを行なう。家の庭で、例えば結婚式の

お祝いなどで行なう。僧侶を招いて「プジャ(供養)」を行なう。年がら年中、そんな

ことをやっているのだ。ある時などは、私の泊まっている宿舎の屋上がガヤガヤして

いた。うるさいなと思って行ってみると、プジャなのだ。もう何十人も居て、一日中

やっているのだ。


街角にゆくと霊祠があり神霊が祀られている。その前の地面には、真鍮で出来た

護摩の炉が埋め込まれている。ご縁日に専門の僧侶衆が盛大に「護摩」を焚くので

ある。



◎三つ眼の神々の祭祀が「護摩」である


護摩を「ハヴァン」とも言う。ヒンドゥー教のほうでは、(通常は)「大麦、胡麻、米、

バター、砂糖、乾燥果実、グッグル(樹脂)」などが供物である。

その他「牛乳、ヨーグルト、ギョウギシバ、ベルノキ葉、黒ゴマ、乳粥、カラシナの実、

バンヤンジュ、ハナモツヤクノキ、アセンヤクノキの薪(たきぎ)」を順に、蜂蜜に浸して

から護摩を行う。日本では「蘇油(そゆ)」であり、胡麻油と甘味が入ったものである。

マハトゥリムンジャヤのマントラを数人で何日もかけて何十万と唱える。

「ハナモツヤクノキ」がパルナ樹で、今でも護摩法に使う大切なのは薪なのだ。

パルナ樹ということは、それは「火天」であり、「葉衣仏母(葉衣観音)」の供物だと

いうことなのである。ここでいう「マハトゥリムンジャヤ」とは、三つ目の神で、

シヴァ神のことだ。日本の不動明王だ。


シヴァ神の神威の相に、仏菩薩が「変化(へんげ)」して不動明王になった。

シヴァ神=不動明王ではない。仏菩薩と土地神には、「権類」「實類」の違いがあるのだ。

この意味をよく考えていただきたいと思います。

参考までに「マハトゥリムンジャヤ」のマントラを示します。

【マハトゥリムンジャヤ】

〔サンスクリット〕

ॐ ह्रौं ॐ जूं ॐ सः ॐ भूर्भुवः स्वः
ॐ त्र्यम्बकं यजामहे सुगन्धिं पुष्टिवर्द्धनम् । उर्वारुकमिव बंधनान् मृत्योर्मुक्षीय मामृतात् ।।
ॐ स्वः भुवः भूः ॐ सः जूं ह्रौं ॐ ।
〔日本語カタカナ表記〕

オーム トリャンバガン ヤジャマヘ スガンディム プシュティヴァルダナン 

ウルヴァールカミバ バンダナン ムリュトール ムクシャ マムルタート

〔意訳〕
「オーム、三つの眼の世尊よ、私たちは拝します。香りの良い、繁栄を増益する者を。

キュウリがその茎から離れるように、私は死から解脱する。」


護摩の本尊は三つ眼の尊格、不動明王が最もふさわしい。守護尊のほとんどが火炎を

背負っている憤怒の相である。激しく運動している形相だ。

葉衣仏母も、化身として吒枳王 成るのであり、吒枳王は愛染明王であるから、

まさに護摩法と関係が深い。日本ではあまり注目されて来なかったが、葉衣観音は

密教守護尊なかの守護尊というべき存在なのであると。三十三観音の一尊であるという

認識しかなかったという事実があるわけだ。



◎新しいサンガの形態「仏法僧縁 常楽我浄」


当ブログでは、相当詳しいお話を読者の皆さんと共有している。

こういう時代であるから、お寺に集まることもできない。お釈迦様は「犀の如く独り歩め」

と言われました。仏菩薩の道は自分を見つめることが第一です。宇宙開闢の絶対神に

従いなさいという教えではありません。


何かに依るということよりも、自分で如実に教えをつかんでゆく。

自分の中に「三宝」を築いてゆく。日本の神様も権現さん、すべては観音様の化現である。

自分の「菩提心(仏性)」を認知して、さらに「観達」する。そのためには南無が無ければ

いけない。


「南無」というのは、「ナマス」からきている。インドやネパールの人が「ナマステ」

とやるでしょう。ナマスは、「屈する」、へりくだるということです。「帰依仏」「南無仏」

というのは、「仏様の前に屈すること」「すべてを投げ捨てる」ことですよ。それが

本当の「帰依(南無)」です。これがあっての「仏法僧縁 常楽我浄」です。


最低限のこのような理解が大切で、延命十句観音経を学んでいれば、仏教の理解は

十分で、ここのブログで学んでいたら、すでに「三宝」との縁。常楽我浄の悟りは、

得ることができるでしょう。


観音菩薩の四徳は、常楽我浄で徳力を現します。

❶常徳力…観音光明力は、何時でも何処でも、常に存在する功徳力である。

❷楽徳力…観音力は、衆生の苦を抜き、楽を与える功徳力である。

❸我徳力…衆生すべてに如来我があり観音力がある。それは自他共に救う功徳力である。

❹浄徳力…心の本性の鏡を清浄にしてくれる功徳力が観音光明力で、必ずあらわれてくる。


「延命十句観音経」を深く信仰しますと、❶〜❹の「観音光明功徳力」が発現します。

このネット時代でもそうなのですよ。自分の「菩提心」の鏡の光りが磨かれてくる。

新しいサンガの形態は、遠隔でもでき得るということです。私と会ったことがなくても

一番大切なのは、理解すること、その理解を自分と照らし合わせて「観達」することです。


みなさんの中(裡)には、「菩提心(仏性)」という仏菩薩の種子がある。全き「鏡の境地」が

すでに在る。では、お経とマントラを唱えて、この福田(三宝)を耕しましょう。


【葉衣十句観音経】
葉衣観世音  南無仏  
与仏有因  与仏有縁  
仏法僧縁  常楽我浄  
朝念観世音  暮念観世音
念念従心起  念念不離心

【葉衣観自在菩薩根本陀羅尼】
ノウボウ  アラタンノウ  タラヤヤ 、ノウボウ アミタバヤ  、
タタギャタヤ、アラカテイ、サンミャクサンボダヤ、
ノウボウ アリヤバロキテイ ジンバラヤ 、ボウジ サトバヤ、
マカサトバヤ、マカキャロニキャヤ、ノウボウ マカサタマ、
ハラハリタヤ、ボウジサトバヤ、マカサトバヤ、
マカキャロニキャヤ、バマネイトバン、ノウボウ  シャミドバ、
ノウボウ シャミバマネイ、
ピシャチ、パルナ  シャバリー、パルナ   シャバリー、ピシャチ、
バキャバテイ、ハシャ、ハラシュ、ハシャダリニ、
ヤニキャニ  シッナバヤ   ニュットゥハ、ニヤマノウ   ニュットゥハ 、
ネンテイ、ヤキャ   シッシッニチュ   ヤキャ   シッシッタマリユ、
ヤキャ  シッシッマカマリユ、 エイケイ シッド ハンタラバ、
エイケイ シッド ハヤサ、エイケイ シッダラヤ、エイケイ シッダジヤ、
バムバ、エイケイシッド  ウパサッギャク、ウパサッギャ 、
サンマンダバ、ウタハデンテイ、サラバニタニ、  サラバサタ、
サラベイテイバ、ラタエイボウ  タハデンテイノウ、ハンヂタ、
サタダネイノウ  サチエイ、ノウサチヤ   バケイノウ、ジャジャジャジャ、
エイビシッシハンヂタア、ヂシュッチテイ、マンダラ ハダイ、
ママサラバサトバ  ナンシャ、ラキャソウクロ、グフヂョウクロ、
ハリタラナンクロ、ハリギャラタクロ、ハリハラノウクロ、
センヂョウクロ、ソバサチヤヤノウクロ、ナンダハリカロウクロ、
シャサタラ ハリカロウクロ、ビシャドシャナンクロ、
ビシャノウ  シャノウクロ、シママンドゥクロ、ダラニマドゥシャクロ、
タニヤタ、アミリテイ、アミリト、ドハムベイ、アシッバサトウゲイ、ママラ、ママラ、
シャマ、ハラシャマ、トド、ビトド、トレイ、トボレイ、ソワカ

【回向】
願わくば 此の功徳を以て  普く一切に及ぼし  我等と衆生と皆共に  仏道を成ぜんことを

合掌

ーーーーーーーー

◎新型肺炎コロナに対応する対応の『観音功徳聚』

→   http://shizenfukuchi.jugem.jp/?day=20200410  (ここでご覧になれます)

※ 葉衣観音(葉衣仏母)のマントラ。延命十句観音経などの集成。

◉ 葉衣観音  オン ハラナ シャバリ ウン ハッタ (八葉印)
ーーーーーーーー
川島徳慈 記す

延命十句観音経の大功徳㊿仏法僧縁 常楽我浄❺謹製パルナお守り

  • 2020.04.25 Saturday
  • 00:00

延命十句観音経の大功徳㊿仏法僧縁 常楽我浄❺


謹製「パルナお守り」を作る



◎パルナお守りのこと


4月21日(火)の早朝、霊夢『パルナお守り』を見たことを、昨日のブログ記事で述べた。

『パルナお守り』の夢に関しての詳細は、昨日のブログを見てもらいたい。


夢の記憶と感覚を頼りに、朝早く人のいない時間に、樹の枝・葉っぱなどを採取

してきた。その葉っぱなどを洗って、乾かし、マントラで加持して、パルナお守りを

作成してみた。


これを実際に作って施行して、その効験を確かめようと思う。

経典などには出ていないが、太古にはこういうパルナ樹お守りがあったかも

しれないからだ。


〔※実際に作ってみました!〕


その昔、私は京都の稲荷山におもむいた。伏見稲荷である。

あそこには「薬力の滝」「薬力社」という霊験あらたかな霊処があり、言霊と深い

関係のあるお山があるからである。あるいは霊学的な話も満載のお山だったからだ。

あそこで滝行などもやったものだ。日本のお札の起源は、伏見稲荷山の「杉の小枝」に

あると聞いたことがあり、山にお参りに入って、杉の小枝をいただいてきて、家でお祀り

したこともある。

太古の熊野詣の際に、稲荷山に立ち寄って、旅の安全のマジナイとして「杉の小枝」を

採ってゆく、無事ならば亦帰りにお参りする、こういうことが行われていた。


葉衣観音に深い関わりのある、パルナ樹はインドのヒンドゥー教の聖木で、染料や薬草、

宗教儀式の捧げ物でもある。夢で見た「パルナお守り」は、そういうものの一種かも

しれないが、霊夢で見た同じ形のものは、どのように調べて出てこない。




◎古今東西の植物と聖なる教え


古今東西に聖者が出現し、教えを遺した。おもしろいのは、釈迦にしても、キリストにしても

必ず比喩の訓話や、言行録の中に植物が出てくることである。


植物は食べ物であり、薬であり、儀式の供物であり、お守りであり、染色の材料であり、

人類の歴史は植物と共にある。


実は私は密かに植物研究をしていたのであり、新型コロナの影響で、ことさら葉衣観音を

説く この頃。必然的に植物に意識がゆき、目が行くのである。


実のなる樹 ということでいうと、イエス・キリストと「イチジク」、菅原道真公と

「梅(の実)」、西王母と「桃(の木)」、釈迦と「ざくろ(と訶梨帝母)」、まあ枚挙に

いとまがない。草花、薬草、樹木など植物を研究せずして、神秘の堂奥にゆくことは

できないように思います。



◎パルナお守りを作る


「パルナお守り」を実際に作ってみました。植物と会話して、少しだけ採取させてもらって、

触れていると、何だか元気になってきますね。新型コロナでたくさんの人々の生命が

危険にさらされている事実が、胸に重くのしかかってきます。つかの間ですが、

植物のおかげで元気になりました。


❶夢で見た感じで作って見たもの。

❷葉っぱと花をあしらったもの。

❸葉衣を意識した感じのもの。

など。



◎常楽我浄と帰依樹


「仏法僧縁」があって、はじめて「常楽我浄」の涅槃四徳が得られる。

密教では、功徳の総体は「曼荼羅」である。「心髄」ということである。


チベット密教では、「ツォクシン」。「ツォ」「ツォク」は御供養ですから、

シンは「樹」です。ですから「帰依樹」だ。チベットの仏教は、大まかに四つの宗派が

あるわけですが、一番大切なのは、このツォクシンを祀って功徳積集をすることです。



根本ラマを中心に描かれている。最終的には、根本ラマに全ての仏菩薩、イダム(守護尊)

から護法尊まで統合してしまう。一身に集めてしまう。これが、まあ「グル・ヨーガ」

ですが、師匠の身・口・意と純一無雑になる。


一枚一枚の葉のように、すべての仏菩薩が構成されている。

昔、私は光が丘公園というところの真横に住んでいましたが、とても大きな公園で、

そこに小高い丘と、広い芝生、美しい樹木などあったのです。時々、気に入っている

場所に座っては、グル・リンポチェ(蓮華生大師)の念誦をやりました。


一つの樹があって、まるで「ツォクシン」なのです。その樹を曼荼羅と見立てて、

修行したものです。思い出の地に時々行きたくなるのですが、行くのが面倒なのと、

当世の新型コロナの影響で、当分は無理でしょうね。



密教の「ツォクシン」や「曼荼羅」は、「涅槃の四徳」を得る為の勝れた方便です。

ですが、帰依や発菩提心がなければ、意味を為しません。


すべての葉っぱの功徳を念じ、お経・マントラを唱えましょう。


【葉衣十句観音経】

葉衣観世音  南無仏

与仏有因  与仏有縁

仏法僧縁  常楽我浄

朝念観世音  暮念観世音

念念従心起  念念不離心


【葉衣観自在菩薩根本陀羅尼】
ノウボウ  アラタンノウ  タラヤヤ 、ノウボウ アミタバヤ  、
タタギャタヤ、アラカテイ、サンミャクサンボダヤ、
ノウボウ アリヤバロキテイ ジンバラヤ 、ボウジ サトバヤ、
マカサトバヤ、マカキャロニキャヤ、ノウボウ マカサタマ、
ハラハリタヤ、ボウジサトバヤ、マカサトバヤ、
マカキャロニキャヤ、バマネイトバン、ノウボウ  シャミドバ、
ノウボウ シャミバマネイ、
ピシャチ、パルナ  シャバリー、パルナ   シャバリー、ピシャチ、
バキャバテイ、ハシャ、ハラシュ、ハシャダリニ、
ヤニキャニ  シッナバヤ   ニュットゥハ、ニヤマノウ   ニュットゥハ 、
ネンテイ、ヤキャ   シッシッニチュ   ヤキャ   シッシッタマリユ、
ヤキャ  シッシッマカマリユ、 エイケイ シッド ハンタラバ、
エイケイ シッド ハヤサ、エイケイ シッダラヤ、エイケイ シッダジヤ、
バムバ、エイケイシッド  ウパサッギャク、ウパサッギャ 、
サンマンダバ、ウタハデンテイ、サラバニタニ、  サラバサタ、
サラベイテイバ、ラタエイボウ  タハデンテイノウ、ハンヂタ、
サタダネイノウ  サチエイ、ノウサチヤ   バケイノウ、ジャジャジャジャ、
エイビシッシハンヂタア、ヂシュッチテイ、マンダラ ハダイ、
ママサラバサトバ  ナンシャ、ラキャソウクロ、グフヂョウクロ、
ハリタラナンクロ、ハリギャラタクロ、ハリハラノウクロ、
センヂョウクロ、ソバサチヤヤノウクロ、ナンダハリカロウクロ、
シャサタラ ハリカロウクロ、ビシャドシャナンクロ、
ビシャノウ  シャノウクロ、シママンドゥクロ、ダラニマドゥシャクロ、
タニヤタ、アミリテイ、アミリト、ドハムベイ、アシッバサトウゲイ、ママラ、ママラ、
シャマ、ハラシャマ、トド、ビトド、トレイ、トボレイ、ソワカ

【回向】
願わくば 此の功徳を以て  普く一切に及ぼし  我等と衆生と皆共に  仏道を成ぜんことを

では今日はこれまで

合掌

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◎新型肺炎コロナに対応する対応の『観音功徳聚』

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※ 葉衣観音(葉衣仏母)のマントラ。延命十句観音経などの集成。

◉ 葉衣観音  オン ハラナ シャバリ ウン ハッタ (八葉印)
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川島徳慈 記す

延命十句観音経の大功徳㊾ 仏法僧縁 常楽我浄❹霊夢パルナお守り

  • 2020.04.24 Friday
  • 00:00

延命十句観音経の大功徳㊾「仏法僧縁 常楽我浄」❹


霊夢『パルナお守り』


〔 ※霊夢『パルナお守り』のスケッチ 徳慈作〕


◎霊夢『パルナお守り』


この「延命十句観音経の大功徳」のお話も49話まで来ました。

お葬式なら満中陰だ。四十九日である。めでたく成仏だ。ですが、あれこれ理屈を言う

凡夫の身、まして今は「全人類コロナお籠り」の時節ですから。これはこれ、100話終了とは

限りませんね(笑)


さて、令和2年4月21日(火曜)の早朝に霊夢『パルナお守り』を見たのです。

次のような内容でした。


『…… 農家のおじさんであるSさんと一緒にいる。するとSさんは絵にあるような不思議な

形の細工を見せてくれた。それを小鉢の樹の上に引っ掛けた。どういうわけで、こんな形の

細工を作ったのか訊いた。

「おじさん、この細工は何なのですか?  何のために必要なのですか?」と。

するとSさんは次のように応えた。

「…ああ、これはわしが色々な作業を山や農家でやった時に、これを印しにしている。

この形はワシのマークなんだよ。」と、

「何か、別の意味もあるんですか?」と、わたしは再度訊く。

「…この印しを置いておくと、いろいろと上手く行くんだよ…」   』


〔 パルナ・シャバリー(葉衣観音)の種字「パ(ム)」〕


このような内容でした。

夢の中ではあるが、この「印し(細工)」を手に持ってみた。

木の枝を折って作ってあるもので、角には藁のような植物性のもので作った紐が幾重にも

巻いてあって強化されていた。(起床すると感触が手に残っていた。)


その形はチベット文字の「パ(PA)」に似ており、これはパルナ・シャバリー(葉衣仏母)

の文字(種字)だと思った。葉衣観音(葉衣仏母)の種字は上記である。スケッチの細工の形と

比較してみていただきたい。



◎これは『葉衣観自在菩薩根本陀羅尼』修唱の功徳である!


朝、目覚めてはっきりと夢の中の植物と細工を憶えていた。日課の瞑想やら念誦の行を

やって、夢の映像を心に刻んだ。

朝食を摂り、少しゆっくりして、夢で見た細工を思念した。ゆったりと「空っぽ」に

なっていると、あの小鉢の樹に引っ掛けてあった細工は「パルナのお守り」だと、

心の底から合点がいった。


考えてみれば、この夢の前日(4/20)に、沢山「葉衣観自在菩薩根本陀羅尼」を唱えた。

この根本陀羅尼は、普通にお唱えして約1分くらいかかる。なんとか半分の時間で

出来やしないかと思いフルスピードでやったり、繰り返し、懺悔文と回向を繰り返し

ながら読誦したのである。(最速でも40秒強であった)

この修習の功徳があって「パルナ樹お守りの霊夢」を見たのだと…。


寝る前に、観自在菩薩に「葉衣観自在菩薩根本陀羅尼」の千遍真言読誦の行を近々

行おうと「心願」したのであった。これは実際に15時間くらいは掛かるものだ。

自分の身・口・意を、「喜捨」して、「慈悲」の心をもって、葉衣観音の功徳廻向を

行なう。



◎パルナ樹葉衣をまとうシャバリー族の巫女


葉衣観音あるいは葉衣仏母は、葉衣仏母とも叶衣仏母とも、山林叶衣母とも表記する。

「叶う」という文字をあてる。「葉衣」と「叶衣」、どこでどうつながるのか?

「衣」は分かる。「葉」も分かる。これはパルナ樹の葉っぱのことである。ゆえに、

山林仏母とも言う。パルナ樹の葉っぱの衣を着た、観音さま、忿怒の仏母ということに

なる。


「叶衣」ということは、願いが叶うということで、パルナ樹の葉っぱ衣を着た、

シャバリー族の女は、そういう咒力を持つということであろう。学者の研究では、

相当古い時代からインドのベンガル地方にシャバリー族は住んでいて、古代の医学である

呪術をやったり、葉っぱで生薬を作ったりしていたようである。伝染病や疫病に

功徳があるというのだから、ある種の解毒生薬なんかも作っていたのかもしれない。

同時に、願いのよく叶う呪術をやっていたと。


私をして云わしむれば、「パルナ樹の葉っぱの衣をまとうシャバリー族の巫女さん」という

感じであろう。太古の時代は、紙など無かったであろうし、布も貴重であったろうから、

木と葉っぱで作った魔除けのお守りなんかがあったのではないかと考える。

一心不乱に、「葉衣観音根本陀羅尼」などやるものだから、感応したのかもしれない。


(※この記事の部分で「叶」は元々「葉」なのだが、中国では「叶」になってしまっている。

漢字の実際の角度からの情報提供がありました。が、「葉衣」が「叶衣」となっている件は、

葉衣観音の着ている「葉っぱ」が物事を叶えさせるという本義であると、中国の密教者

から聞いている事実もありますので、ここでは意味を込めたものという解釈をしています。)



◎常楽我浄の正因・正縁は「仏法僧」である


わたしは当代これ以上のマハーグルはいないのではないかと思われる、カトック・ゲッツェ・

リンポチェ・マハーパンディッタから「葉衣観音」の灌頂とマントラ等の伝授を受けた。

その自分がその後「葉衣観自在菩薩経」を紐解き、さらに葉衣観自在菩薩根本陀羅尼を

修唱し、新型コロナ感染の時代にこうして存在している。


小生のような、愚かで不徳の人間が、果たして葉衣功徳を廻向できるのか分からない。

だが、延命十句観音経、摩訶般若波羅蜜多心経と共に、葉衣観自在菩薩根本陀羅尼を

読誦することで、観音菩薩や大聖者の方々の功徳を衆生に巡らせる、細い水路でも、

そうなり得るかもしれない。自分の徳は、不憫不足だが仕方がない。今生きている人間で

協力するしかない。


仏道を歩むと「常楽我浄」という仏様の四徳が授かる。仏様の功徳は、世俗の功徳と

出世間の功徳がある。教えに世俗諦と勝義諦があり、その果報(結果)も同じように

二種類があるのである。


世俗的な功徳も時には大切で、その功徳(霊験)があってこそ、民衆は仏菩薩の教えを

深く信ずるに至るのである。あの万徳円満のお釈迦様ですら、外道を調伏する為に、

弟子信者を納得させる為に、神通力を現したのである。



「(衆生自身の)菩提心の因縁」+「仏法僧(の因)縁」により、=「常楽我浄(の涅槃の四徳)」、

衆生の菩提心があっても「仏法僧(縁)」がなければ、涅槃の四徳は果報となることはない。


仏菩薩の救いというものは、各自が「自らの煩悩を超脱する」よりほかない。

だが、そのような自覚と誓願、帰依・発菩提心は、簡単に誰でも得れるわけではない。

ほとんどの人が、言わば「俗っぽい」のである。だから、ある種の世俗的な功徳、

要するに「ご利益」が必要なのである。


本当の修行は、「空にはじまり空におわる」のであり、この身この一生も、そう考えて

「喜捨」してゆく、「慈悲」をもって「今生を捨てる」、これが修行の大秘訣なのだ。

はっきり言って、世俗のことなどどうでもいいのが、仏の道なのだ。


だが、なかなかそうも行かない、生きてゆくこと、家族を守ること、幸せにあること。

私も凡夫だから、よく分かる。多くの人は、仏様の教えよりも、現世の普通の幸せが

大切なのである。観音菩薩は、よくそのこともお分かりである。だから三十三の御身を

現して、すべての境涯の衆生を済度してくださるのだ。現世のご利益を与えつつ、

長い時間をかけて、衆生を導くのである。


いまは新型コロナ感染の災禍が、一番のテーマだ。

だが地球にとって、これは災禍だろうか? ヒマラヤ山脈から200劼曚瀕イ譴臣呂ら、

ここ何十年もヒマラヤ山脈が鮮明に見えることは無かった。だが、新型コロナの影響で

車が走らなくなり、空気が清浄になって、今ではヒマラヤ山脈がよく見えるようになった。

これは地球からすれば健全化したということではないか?


何が本当の答えなのか? 顛倒妄想していては分からない。

東京都の奥多摩に押し寄せて、地元民に迷惑な思いをさせている連中。

神奈川県の江の島にも、サーファーが殺到している。地元民は迷惑している。

口々に普段の日だからイイんじゃないかと、都合のいい理由をこねくりまわして…。

しょせん詭弁ですね。


こういう連中には、「新型コロナを課せられた」本当の意味は分からないと思う。

各々が、人との接触を断つ中で、答えを見つけてゆく必要があると思う。


さて、そうは言っても同じ国民、同じ人間です。みんなが共存できるように、観音利益が

行き渡るように、「延命十句観音経」と「葉衣観自在菩薩根本陀羅尼」をお唱えしましょう。


【延命十句観音経】
観世音  南無仏  
与仏有因  与仏有縁  

仏法僧縁  常楽我浄  
朝念観世音  暮念観世音
念念従心起  念念不離心


【葉衣観自在菩薩根本陀羅尼】
ノウボウ  アラタンノウ  タラヤヤ 、ノウボウ アミタバヤ  、
タタギャタヤ、アラカテイ、サンミャクサンボダヤ、
ノウボウ アリヤバロキテイ ジンバラヤ 、ボウジ サトバヤ、
マカサトバヤ、マカキャロニキャヤ、ノウボウ マカサタマ、
ハラハリタヤ、ボウジサトバヤ、マカサトバヤ、
マカキャロニキャヤ、バマネイトバン、ノウボウ  シャミドバ、
ノウボウ シャミバマネイ、
ピシャチ、パルナ  シャバリー、パルナ   シャバリー、ピシャチ、
バキャバテイ、ハシャ、ハラシュ、ハシャダリニ、
ヤニキャニ  シッナバヤ   ニュットゥハ、ニヤマノウ   ニュットゥハ 、
ネンテイ、ヤキャ   シッシッニチュ   ヤキャ   シッシッタマリユ、
ヤキャ  シッシッマカマリユ、 エイケイ シッド ハンタラバ、
エイケイ シッド ハヤサ、エイケイ シッダラヤ、エイケイ シッダジヤ、
バムバ、エイケイシッド  ウパサッギャク、ウパサッギャ 、
サンマンダバ、ウタハデンテイ、サラバニタニ、  サラバサタ、
サラベイテイバ、ラタエイボウ  タハデンテイノウ、ハンヂタ、
サタダネイノウ  サチエイ、ノウサチヤ   バケイノウ、ジャジャジャジャ、
エイビシッシハンヂタア、ヂシュッチテイ、マンダラ ハダイ、
ママサラバサトバ  ナンシャ、ラキャソウクロ、グフヂョウクロ、
ハリタラナンクロ、ハリギャラタクロ、ハリハラノウクロ、
センヂョウクロ、ソバサチヤヤノウクロ、ナンダハリカロウクロ、
シャサタラ ハリカロウクロ、ビシャドシャナンクロ、
ビシャノウ  シャノウクロ、シママンドゥクロ、ダラニマドゥシャクロ、
タニヤタ、アミリテイ、アミリト、ドハムベイ、アシッバサトウゲイ、ママラ、ママラ、
シャマ、ハラシャマ、トド、ビトド、トレイ、トボレイ、ソワカ

【回向】
願わくば 此の功徳を以て  普く一切に及ぼし  我等と衆生と皆共に  仏道を成ぜんことを

合掌

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川島徳慈 記す

延命十句観音経の大功徳㊽「仏法僧縁 常楽我浄」❸

  • 2020.04.23 Thursday
  • 00:00

延命十句観音経の大功徳㊽


「仏法僧縁 常楽我浄」❸



◎「涅槃の四徳」


仏陀釈迦牟尼は、四顛倒を説かれた。

❶無常

❷苦

❸無我

❹不浄であると説かれた。
この四顛倒は、真諦で転ずると「涅槃の四徳」となる。

❶常徳…涅槃は常住で真の不滅不変の境涯である。
❷楽徳…涅槃では人間の苦楽を離れたところにある。真の安楽の境涯である。
❸我徳…涅槃では二元論的に陥った自我を離れ、如来我の境涯である。
❹浄徳…涅槃は煩悩を離れ、浄・不浄を離れた自性清浄の境涯である。

『涅槃経』に、「如来常住にして変易有ること無く、常、楽、我、浄なり。

終に畢竟じて涅槃に入らず。一切衆生 悉く仏性有り」とある。

「涅槃に入らず」とは、『般若理趣経』の百字偈にも同じような主旨の経句があり、

『百字偈のお写経』は大変な功徳がある。


『般若理趣経  百字偈』にこうある。

菩薩勝慧者(菩薩は勝れた智慧をもつ者である)

乃至尽生死(なべて生死の尽きるまで)

恒作衆生利(恒ねに衆生の利を作かり)

而不趣涅槃(耐えて涅槃におもむかず)


大菩薩は、すぐれた智慧を持ち、すでに成仏しているのに、たえて無余依涅槃(完全なる

ニルヴァーナ)には入らず(おもむかず)、繰り返しの生死の中で、六道輪廻の衆生の利を

はかるのである。



◎観音菩薩は耐えて涅槃におもむかず


その菩薩の代表が観世音菩薩・観自在菩薩様なのです。

すでに御本身は、「普光功徳山王如来」として「授記」され、観音光明界の浄土を

開かれている。観音光明浄土である。


摩訶般若波羅蜜多心経、観世音菩薩普門品、延命十句観音経などは、全て観音光明浄土

からの救いの光である。観音菩薩は、すでに観音如来に成られている。だが、大菩薩の

誓願である、「すべての衆生が『常楽我浄の四徳』を得る」まで、耐えて涅槃には入らない、

まだ衆生と共にあるのです。


観音仏陀に成られているからこそ、「涅槃の四徳」を衆生にお与えになることができる

のです。観音菩薩の本師であり、本体が阿弥陀仏(無量寿如来)なのです。観音菩薩は、

阿弥陀仏の本願を成就した、大慈悲の応化佛なのです。この意味が分かりますか。


わたしはいま サラリと大変なことを述べました。

浄土真宗の親鸞上人が御在世ならば、「おまえは南無大慈大悲観世音大菩薩の念仏でいいよ」

と宣われたかもしれませんね(笑)


しかし、「帰依と発菩提心」は奥の深いもので、さらに「仏法僧縁」の功徳や、

「常楽我浄の涅槃四徳」などは、もう何日あっても解き明かすことができない。

あえて言うならば、「懺悔」し、「廻向」する、この心が「凡夫の涅槃の境地」と

いうことでしょう。これはテクニックではありません。本当の信仰心、動機がなければ

為すことができない。本物の発心でないと味わえないものです。


では、今日はここまで。

合掌

ーーーーーーーー

◎新型肺炎コロナに対応する対応の『観音功徳聚』

→   http://shizenfukuchi.jugem.jp/?day=20200410  (ここでご覧になれます)

※ 葉衣観音(葉衣仏母)のマントラ。延命十句観音経などの集成。

◉ 葉衣観音  オン ハラナ シャバリ ウン ハッタ (八葉印)
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川島徳慈 記す

延命十句観音経の大功徳㊼「仏法僧縁 常楽我浄」❷

  • 2020.04.22 Wednesday
  • 00:00

延命十句観音経の大功徳㊼


「仏法僧縁 常楽我浄」❷



◎観音の四徳「常楽我浄」


「四徳法身」ということを前回述べた。

「常・楽・我・浄」は、「観音の四徳」なのである。

❶常徳…無常の覚り。本当の平常心がそなわる。
❷楽徳…苦楽を超越した、本当の安楽がそなわる。
❸我徳…無我の覚り。自他を超越した利他心がそなわる。
❹浄徳…浄不浄を超越した平等の覚り。「捨」の徳。


これは、慈悲喜捨の「四無量心」につながっている。

❶慈無量心、❷悲無量心、❸喜無量心、❹捨無量心である。

四無量の心というのは「菩提心」の発露であり、この実践が「六波羅蜜の行」である。


「慈悲」「喜捨」と、こうなる。四つが、二つに分けれて日常の用語として、日本では

根付いている。

❶「慈悲」といういうのは、優しさ、理解ある思いやり、またその行為だ。

❷「喜捨」というのは、喜んで平等に、気前よく、布施する覚り。本来無一物の悟りと、

その行為である。

観音菩薩は、南無仏で帰依することで、「観音菩薩の四徳」を授けてくれるぞと

いうことである。


衆生の心には、「煩悩」と「本性」が混ぜこぜになっている。

特に「四我」というものが、「覚り」を阻んでいる。



◎潜在意識『マナ識』に在る「四我」


四我とは、「我痴・我見・我慢・我愛」で、これは唯識三十頌に出ている。

唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)、梵語で「トリンシカー・ビジュニャプティ・

マートラター」という。唯識派の世親がものした「唯識思想」を要約した30の偈頌である。

これを玄奘が訳した。玄奘三蔵は法相宗のもとである「成唯識論」も訳している。

唯識派仏徒は、深い禅定と思索を通じて「唯識」の教えを発見しています。そのエキスが

『唯識三十頌』です。その句をさらに引用しましょう。
「四つの煩悩と常に倶なり。謂わく我痴と我見と我慢と我愛となり。及び余の触等と倶なり」

心の深奥に四つのがいつも(常に)あるというわけです。
❶煩悩の第一は我痴。これは「無明」とも訳されている。

本来「空」だということ、「無我」ということ、その「無我」「空」についての

根本的な無知、それが心の深奥にあるということ。
❷我見。「無我」「空」についての無理解。「我れ」が在り、我れという見方がある。

それを「我見」というのです。アートマン見解とも言う。
❸我慢。「我れ」は意味あるものだ。自分をよりどころにする。この「慢」は人間界に

強く結びついている煩悩です。それを「我慢」といいます。「我慢する」という日常語

は、逆説的な意味になっています。なぜ我慢するのかというと、プライドがあるからです。

実は深い根のプライドも「我慢」なのです。唯識では、「我慢」はありもしない自分と

いう実体的を拠り所、根拠にする心(煩悩)のことです。
❹我愛。根源的な無知のうえに、「我れ」という実在があると思いこみ、さらにそれを

拠り所にし、愛着・執着する。それを「我愛」と言います。深層的なエゴの心です。

人間存在の深奥に「我が身可愛さ」を秘めていることです。「渇愛(タンハー)」である。

「渇愛」がある故に人は輪廻転生します。

『摂大乗論』に、こうあります。
「若し人、まさしく善心を起こすも亦、此の識有り」。

分かりやすく言えば、
「もし人があって、まさに善心を起こしても、またマナ識がある」というのです。

人間は善を思い、善を行なっていても、このマナ識、つまり「四つの我(執)」がある。

自らへの拘りは、善を行なっても(心の奥の)どこかにある。

「末那識は即ち悪」ではありません。

ボランティアの心も、それを無視する心も、マナ識の働きでもあります。

分別での善悪を判断の基準にしても意味がありません。

「四我の煩悩」は、自分と他者を分けるということ。外部と内部を分けること、

つまり「二元論的見解」の元が「四つの我執の煩悩」で、自分という実体、

肉体、器官、感覚、心が自分だと思っていること。これを「身見(我見)」と言います。


仏教の正道である、八正道の第一である「正見」は、まさに「我見」を断つわけです。

「身見」「疑惑」「戒取」の三結煩悩を断つことは、四聖諦の示転であり、見道が完成

したことと全く同じです。百八煩悩のうちの八十八煩悩(見惑)が断たれ、第一階梯の

「七来の聖者」になったということです。

それは「四我の煩悩」を正しく見るということです。次に修道に入り、これを断つ修行に

なってゆくのです。これは百八煩悩のうちの残り二十煩悩を断つことと同じです。

四つの煩悩を断つと、常・楽・我・浄の「四徳」が出てくる。「涅槃の四徳」とも言う

わけです。


玄奘三蔵法師さまのお徳を拝して、延命十句観音経をお唱えしましょう。

「常楽我浄」の観音四徳に随喜しましょう。


延命十句観音経

観世音  南無仏

与仏有因  与仏有縁

仏法僧縁  常楽我浄

朝念観世音  暮念観世音

念念従心起  念念不離心


はい、これで。
合掌

ーーーーーーーー

◎新型肺炎コロナに対応する対応の『観音功徳聚』

→   http://shizenfukuchi.jugem.jp/?day=20200410  (ここでご覧になれます)

※ 葉衣観音(葉衣仏母)のマントラ。延命十句観音経などの集成。

◉ 葉衣観音  オン ハラナ シャバリ ウン ハッタ (八葉印)
ーーーーーーーー

川島徳慈 記す

延命十句観音経の大功徳㊻「仏法僧縁 常楽我浄」❶

  • 2020.04.21 Tuesday
  • 00:00

延命十句観音経の大功徳㊻


「仏法僧縁 常楽我浄」❶



◎常楽我浄は四徳法身である


常・楽・我・浄は、四徳法身である。次の如し。
➊ 法身は無為常住の法=常徳
❷ 法身は苦のない楽の境地=楽徳
❸ 法身仏は大我である=我徳
❹ 法身は清浄で穢れがない=浄徳


経文では「仏法僧縁  常楽我浄」ですから、仏法僧縁の「三宝」は、法身の四徳に

つながっている。三宝の因縁は、常楽我浄の果報をもたらす。

仏縁・仏法との縁起(因縁)により、法身の果報を得る。成仏するということである。



◎観音菩薩に帰依する功徳


「観世音 南無仏」、十句観音経の冒頭である。「観音菩薩に帰依し奉る」。

この帰依は、観音菩薩という本師へのものである。と同時に、これは自分の菩提心(本性)

への帰依にもなっている。本性とは仏性と言ってもよい。


観音菩薩の「勝義の菩提心」に帰依する。本物の菩提(覚り)に帰依する。

自分自分の「世俗の菩提心」を発起・発趣する。これをチベットではモンジュ・ジュパと

いう。


本師である観音菩薩への帰依(南無)、自分自分の発菩提心が為されると、縁起が生ずる。

何の縁起が生ずるのかというと、「仏縁」が生じるのである。仏縁とは「仏法僧縁」だ。

仏陀・菩薩、ダルマ(仏法)、サンガ(僧伽)との縁が起きるのだ。



◎「仏法僧縁」の具現


仏法僧縁が具現しますと、本師が現われる。

延命十句観音経に帰依して、一心にやりますと本師は観音菩薩ということになる。


以前、ある宗教の教祖様がチベットの最高指導者であるダライ・ラマ法王に謁見

した。その時に、通訳の人が「転生活仏(トゥルク)」を「生まれ変わり転生している

菩薩の存在です」と言えばいいのに、「仏様の具現」ですと言ったものだから、

その教祖様は、「活仏(グゲン)」と書いちゃって印刷物として出した。

「ダライ・ラマ猊下は、生きながらの『活仏(グゲン)』である」なんて明記。おかしいやら

恥ずかしいやらで、他人事ながら赤面したことを憶えております。


きちんとした動機・発心を以って、観音菩薩の化身(活仏)であるような、ダライ・ラマ法王

のような方と結縁でき、帰依が出来たら、ほとんど成功です。観音菩薩様とその化身と

仏縁が生じる。これが十句観音経の大功徳です。


観音菩薩は未来世において「普光功徳山王如来(ふこうくどくせんおうにょらい)」という

仏陀になることが「授記」されています。阿弥陀如来、阿弥陀三尊の第一の侍者。

実際には既に如来に成られている。化身の大菩薩として、顕現されているのです。

私がいつも述べる「観音光明界」は、「普光功徳浄土」なのです。ちなみに勢至菩薩は

「善住功徳寳王如来(ぜんじゅうくどくほうおうにょらい)」に成るのです。善光寺の

阿弥陀三尊は、インド・朝鮮・日本と三国を渡ってきた「生身の阿弥陀仏」で、

「善光寺如来」の「善」と「光」の名が、どこから来ているのか推察できますよね。


「善光寺参り」というのが、如何に功徳があるのか、これでお分かりと思います。

本師にもいろいろありますが、観音菩薩とこの「金句の経文」そのものが、本師

なのです。日蓮宗などでは「妙法経力」と言いますが、「延命十句観音経力」と

私は名付けている。


ひとつ「本師」を具現させましょう。

そうです、朗々と奉唱すること。その音声(おんじょう)が本師なのです。


延命十句観音経

観世音  南無仏

与仏有因  与仏有縁

仏法僧縁  常楽我浄

朝念観世音  暮念観世音

念念従心起  念念不離心


では、今日はこれで終わります。

合掌

ーーーーーーーー

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川島徳慈 記す

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