密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳粥

  • 2019.09.08 Sunday
  • 08:00

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳粥


≡ 玄奘三蔵と摩訶般若波羅蜜多心経の物語❻ ≡



◎観自在菩薩(大般若佛母)が現れる!


玄奘三蔵は法相の師匠たる戒賢法蔵(シーラバトラ)と邂逅した。

この出会いがなければ法相の教えが伝燈されることは無く(無いとは言えないが)

密教の付法も三国伝燈の結晶化は無かったかもしれない。

(※ 密教の基礎は「法相唯識」にあり)


ナーランダー僧院では、シーラバトラの他に、もう一人の僧侶が玄奘三蔵を

待っていた。それは彼のインド乞食病僧だ!

玄奘三蔵に「摩訶般若波羅蜜の経典」を施してくれた乞食だ。


玄奘三蔵がナーランダー僧院に着くと、

なんと!!   あの乞食僧がいるではないか。

驚いて呆然としている玄奘三蔵に、その乞食僧は、

こう言った、「我れは観世音菩薩である」と。

そう告げて、玄奘三蔵の前から姿を消したという。

かの乞食の坊主は、観音様の化身だったのである。


「摩訶般若波羅蜜」の具現化した尊格は、般若波羅蜜菩薩(般若菩薩)である。

諸菩薩たちを生み出すのは「仏母」のお役で、

仏母には、「仏眼仏母」「準提仏母」等がおられるが、

「大般若仏母」が、行者の本身たる「般若菩薩」の母なのである。

(※ 密教の「胎蔵界曼荼羅」の持明院の中央座は空位になっている。般若菩薩が

いる筈なのに描かれていない。それは行者自身が般若菩薩と化して修行することを

意味しているのである。)


行者自身は「般若菩薩」。

般若菩薩は、「大日如来」の正法輪身、教令輪身になると「不動明王」になる。


摩訶般若波羅蜜の生みの親、それを説くホトケ。

それはどなたか?

そうです! 大般若仏母であり、観自在菩薩なのです。

だから「般若心経」の冒頭が、「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時…」となるのです。

大般若仏母は観自在菩薩であり、観自在菩薩は大般若仏母なのだ!

観世音菩薩は観自在菩薩であり、観自在菩薩は観世音菩薩なのである!

すべて表裏一体。



◎玄奘三蔵の天竺での求法


玄奘は、ナーランダー僧院で観世音菩薩に会い、観世音菩薩であると同時に、

その「自在力」を目の当たりにし、観自在菩薩の功徳力を感得した。

観世音菩薩を「観世音自在菩薩」(約めて「観自在菩薩」と捉えたのだ!)

これは梵語の解析からも正しいことであった。

(※ 梵語(サンスクリット語)で観音様を「アヴァロキテーシュヴァラ」という。)


師僧のシーラバトラ(戒賢法蔵)から唯識法相、仏教の根本を学ぶ。そして、

大乗仏教・小乗仏教の経典・論書、インド医学、薬学、数学、あらゆるものを研究した。


インドの南の方に巡歴し、南のコモリン岬の手前からアジャンター石窟を通って、

再びナーランダー僧院に戻る。玄奘は中国仏教に足りないものがある、まだ佛法は

中国に完全に流伝していない。そういう駆り立てるものが玄奘にはあった。


中国に佛法が伝わって400〜500年。玄奘在世の時は六世紀。

伝わっていない経典が沢山ある。求法の学僧は、未見の諸経典を求め、それを解釈して、

衆生に伝える。玄奘の先輩の訳経僧だった、法顕や智厳(ちごん)等の凄い先輩が

いて、その功績を痛いほど分かっていたのだ。
 
玄奘三蔵は、「瑜伽師地論」を翻訳しただけでなく、当時の唯識法相の最高の学匠

だったシーラバトラから教えを受け、そこから出てきているであろう、さらに奥の

佛法の存在も予感していたに違いない。



その奥の佛法とは、密教のことなのだが、唯識には方法論(修行方法)として、

「唯識観法」というものがある。密教はそれをさらに進めて、三密具足の

「即身成仏の法」を配した。


唯識観法は、密教において発展し、胎蔵界の法、金剛界の法となって結晶化した。

この唯識観法の原初は、原始仏教の修行法である「五根法」「五力法」の中に、

見出すことができる。


玄奘三蔵は、完全に求法が終わったとは言えないが、大目的の唯識法相の大元、

「瑜伽師地論」、般若空の根本経典「大般若経典」を得た。

さあ、そろそろ故国に帰らなければならぬ。

玄奘三蔵の顔と目は東の方角を向いて眺め、心は長安に飛んでいた!

「さあ、復路への出発だ!」


(つづく)
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〔『摩訶般若波羅蜜多心経 小経本 印施の募集』〕
来年2020年(令和二年)摩訶般若の功徳を込めた小経本を作成し、広く布施行を
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川島 謹記
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川島徳慈しるす

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳魁

  • 2019.09.07 Saturday
  • 08:00

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳魁


≡ 玄奘三蔵と摩訶般若波羅蜜多心経の物語❺ ≡



◎玄奘三蔵、トルファンを行く


玄奘三蔵の法旅は、いよいよ進捗してゆくのです。

莫駕延蹟(ばくがえんせき)、トルファン(高昌国)を行く。長安から凡そ1年間程で

大体此処まで来たのである。



トルファンには高昌故城(こうしょうこじょう)というものがあるが、

玄奘三蔵はこの城で『仁王般若経』の講義をした。
当時の高昌国王には、麹文泰(きくぶんたい)という王様がいた。

非常に仏教信心深い人で、玄奘が来ているということは情報を得ていた。

で、トルファン(高昌)に滞在して貰った。半ば強引だ。
 
もう此処までくると国禁を犯しての法旅ということも、通牒はされていたが、

正確には伝わっていなかった。玄奘さんという偉いお坊さんは諦めて帰朝したとか、

死んでしまったとか、いろいろな噂があった。
 
麹文泰王は、玄奘三蔵に次のように勅した。

「法師よ、天竺には行かないで、ここに留まって、この国の衆生を救ってほしい」と。

それは当然のことだと思われる。

当時の最高位に属する有徳の仏教僧が目の前にいて、その上 自分は熱心な仏教徒。


だが、玄奘三蔵は高昌国王の申し出を断る。

「私は天竺にどうしても行きたい」と。

麹文泰王は「いや、行かせない」と。

軟禁状態だ!


そこで玄奘は三日間断食した。

さすがに麹文泰王も折れた。玄奘三蔵の志の方が勝っていたわけだ。

ようするに理念が一枚上手だった。

(※ 人が生きるのに大切なのは実に「理念」だ。これなくして高まってゆくことは

できない。思考することが人間の特徴だとしても、理念がなければ粗野な人間に

なってしまう。貴方も理念について考えなさい。)


王様曰く、

「では天竺からの帰りに三年寄ってくれ」と。

それで各国の貢ぎ物を下賜し、玄奘はさらに西へ西へと進んで行く。



◎玄奘三蔵、クチャを行く


高昌国を出て数百里行くと、クチャという国に入る。

例の鳩摩羅什(くまらじゅう)の誕生した所だ。


クマーラジーヴァの父は鳩摩羅炎(くまらえん)、母は耆婆(ぎば)という方。
この二人を父母として鳩摩羅什は生まれた。
鳩摩羅什は優れた訳経官で、中国では四大訳者の一人だ。

四大訳者というのは、法顕(ほっけん)、義浄(ぎじょう)、鳩摩羅什(くまらじゅう)、

そして玄奘三蔵ということになっている。



クチャを漢字で亀茲(きじ)と云う。クチャ国=亀茲国だ。

亀茲の音楽は有名で、その民族音楽は日本の雅楽にも影響を与えているという。
当時は高度の仏教文化都市で、それ故に鳩摩羅什のような優れた訳経官を

輩出したのである。


クチャでも何らかの仏教の知識を得て、天竺をさらに目指す。

例の聳え立つ天山山脈を越える道をゆく。江戸時代日本にも箱根の関所越えというのが

ありましたが、高さも険しさも違う。箱根では「くもすけ」がでましたが、

古代のシルクロードでは本物の盗賊だ。青竜刀みたいな刀を振り回して、相手の

首を刎ねてしまう。断末魔だ。玄奘はトルファンの王様から貰った品があるから

狙われる。



◎砂の都バルカ国


トルファンの途中にペダル峠があり。これが凌山(りょうぜん)。

この辺りに、バルカ国があった。バルカとは砂の意。ようは砂の都ということ。

砂が豊富にあり、その砂を使って住居にしたりと活用していた国だった。

そのお城は「インアイマイコンシャハル(砂の城)」と呼ばれていた。



◎お釈迦様は母の国を目指した!


シルクロード旧道。この手前インダス河が流れており、乾き切った高い岩石の山道で、

この千尋の谷から落下すれば確実に御陀仏。これは法顕三蔵のルート。
法顕は三九九年に出発して此処を通った。


北インド、カイバル峠というのがアフガニスタンとの境目。カブール河とスワート河と

インダス河と三つ交流している所だ。その辺りがガンダーラー。いよいよインドに入る。
 
ガンダーラーからカシミール。それから祇園精舎のあるところ。

祇園精舎は、中天竺のサーラーヴァスティー(舎衛城)にあった寺院で、

お釈迦様が十八年説法を行ったとされる場所。仏滅の地クシナガラ。

マトゥラー、さらにナーランダー。


お釈迦様の誕生地は、いまのネパール領で、北にあるカピラヴァストゥという

居城からお母さんの摩耶夫人が、お産の為に移動。

摩耶夫人の家では、実家でお産をするのが慣わしだったので、実家に向かった。

お城と実家の中間点に、ルンビニー・花園があり、此処で摩耶夫人はお釈迦様を

お生みになった。


なので実家に戻る必要がなくなり、カピラヴァストゥへ戻って、産後7日目に

お母さんがお亡くなりになった。お母さんの妹さんも同じ夫で、浄飯王(じょうぼんのう)

すなわちシュッドーダナ王の元へ嫁いでおり、妹さんも赤ちゃんが生まれたので、

お姉さんの摩耶夫人の子にもお乳飲ませ、自分の子どもは乳母に育てさせたという。

お釈迦様の叔母さんは、とても偉かった人なのです。
 
入滅の地とクシナガラ。お釈迦様は此処で入滅された。まさに仏滅です。
このクシナガラで亡くなる時に、阿難侍者に向かって、

「頭を北に、そして顔を西に向けてくれ」と指示したと経典に記されている。

自分の頭も顔も動かせないぐらい体調は重かった。



「顔を西」にと云うから皆んなお釈迦様が、故郷のカピラ城に帰りたいと思った、

そう考えている。が、実はそうではなくて、西というと、其処から80劼阿蕕い僚蠅法

お母さんの摩耶夫人の生まれた「ラーマグラーマ」という村落がある。

きっとお釈迦様は、そこへ行きたかったのだと思う。

小高い丘で、お釈迦様のお墓が作られている。


やはり仏様でも最期の時にはお母さんを思い出す。

お母さんに支えられていたのです。仏陀釈迦牟尼ですら母を思う。
貴方たちは母に、父に、家族に「摩訶般若波羅蜜」を捧げなさい。

「摩訶般若波羅蜜」で、人生の旅が無事・無難なることを祈ってあげなさい。



 
そしてバーラナシーに行き、とうとうナーランダー寺院に到着だ!

当時の天竺 仏教総本山で、玄奘三蔵は名僧・尸羅跋陀羅(シーラバトラ)に出会う。

中国名は、戒賢法蔵。この僧は、玄奘到着の3年程前からリューマチを患っており、

あまりの苦しさに人生を諦めようかと思っていた。



伴僧が「中国の偉い僧が天竺に向かって歩いている。三年後には着くから」と。

戒賢法蔵(シーラバトラ)が玄奘三蔵の師僧にあたる人である。
 
そして玄奘三蔵を待つ僧侶が、もう一人いた!?

果たして・・・。


(つづく)

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〔『摩訶般若波羅蜜多心経 小経本 印施の募集』〕
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川島 謹記

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川島徳慈しるす

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳押

  • 2019.09.06 Friday
  • 08:00

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳押


≡ 玄奘三蔵と摩訶般若波羅蜜多心経の物語❹ ≡



◎まさしく乞食僧は観音菩薩である!


何人かの読者から、玄奘三蔵に「般若心経」施経した乞食は、

観音菩薩なのではないか?  というお便りを頂いた。

まさにである。その通り、観音菩薩だったのである!


摩訶般若波羅蜜多心経の経題の次にくるのは、

「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 ・・・」である。

これは玄奘三蔵訳の般若心経だ。


玄奘三蔵が大法旅の途中で読誦していたのは、鳩摩羅什訳の「摩訶般若波羅蜜大明呪経」

である。この経典の、観自在菩薩ではなく「観世音菩薩」となっている。

いわゆる観音様である。


観音様の救いと、大法旅の成就体験を以って、玄奘三蔵は「観自在菩薩」

と訳した。何故だろうか?

その話をする前に、乞食と玄奘の話を詳しくしたいと思う。


玄奘が、益州の空恵寺にいた時、インドの乞食僧が病気で苦しんでいた。

その乞食の坊さんを玄奘は看病してあげた。

このインド乞食僧は、玄奘が砂漠を越えて天竺に仏教教典を得るという志を持っている
ことを知ると、一巻の経典を施経した。それが摩訶般若波羅蜜の大明呪経だった。

そう!いわゆる「摩訶般若波羅蜜多心経」の前身、鳩摩羅什訳の般若心経だ。

乞食の僧は、

「これを唱えてゆけば、災厄にもあわず、病気にもかからない」と言った。

そして その通りになった。砂漠の絶対絶命の危機を回避したのだ!

その後の困難も全ては克服した。実はこの乞食僧との因縁はまだあるのだが、

それはまた出てくる。

しかし、この乞食の坊さんが観音菩薩の化身であったことは事実であった。


玄奘三蔵は、あの広大な、遠い遠い、まったく気が遠くなるほど遠い砂漠の道を
ガテー、ガテー、パーラガテー、バーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー
と、般若心経を唱えながら進んで行った。


自分の前に荒涼とした砂漠があって、誰も助けてくれない、

そういう絶体絶命の大ピンチを想像して、摩訶般若波羅蜜多心経を玄奘三蔵に

なって唱えてごらんなさい。


あなたは「観世音菩薩」「観自在菩薩」の念彼観音力を感じるであろう。

人生は砂漠であると同時に極楽です。人々、一切衆生が菩薩に見えるであろう。



◎鳩摩羅什の経訳


鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)

344年 - 413年在世。一説に350年 - 409年とある)

亀茲国(きじこく)新疆ウイグル自治区クチャ県辺りの出身の西域僧。

後秦の時代に長安に来て約300巻の仏典を漢訳し、仏教普及に貢献した訳経僧。

最初の三蔵法師。鳩摩羅什は玄奘と共に二大訳聖と言われる。三論宗・成実宗の基礎を築く。

鳩摩羅什訳の経論は、

仏説阿弥陀経、坐禅三昧経、摩訶般若波羅蜜経(27巻(30巻))、妙法蓮華経、
維摩経、大智度論、中論 など。
大胆な創作や意訳の疑いが指摘されるが、羅什の翻訳によって後代の仏教界に

与えた影響は計り知れず、玄奘三蔵による訳経を「新訳」と呼び、

鳩摩羅什の訳経を「旧訳」という。それ以前は「古訳」という。


◎鳩摩羅什の摩訶般若波羅蜜大明呪経

『般若心経』と言えば玄奘三蔵訳。

ですがここでは鳩摩羅什の訳した般若心経を示しましょう。
鳩摩羅什は、この経典のタイトルを『摩訶般若波羅蜜大明呪経』としました。

サンスクリット語の般若心経には、タイトルがついていないので、

経題は漢訳した人がつけます。

摩訶般若波羅蜜大明呪経  
観世音菩薩。行深般若波羅蜜時。照見五陰空。度一切苦厄。

舎利弗。色空故無悩壊相。受空故無受相。想空故無知相。

行空故無作相。識空故無覚相。何以故。舎利弗。非色異空。

非空異色。色即是空。空即是色。受想行識亦如是。舎利弗。

是諸法空相。不生不滅。不垢不淨。不増不減。是空法。

非過去非未來非現在。是故空中。無色無受想行識。

無眼耳鼻舌身意。無色声香味觸触法。無眼界乃至無意識界。

無無明亦無無明尽。乃至無老死無老死尽。無苦集滅道。

無智亦無得。以無所得故。菩薩依般若波羅蜜故。心無罣礙。

無罣礙故無有恐怖。離一切顛倒夢想苦悩。究竟涅槃。

三世諸仏依般若波羅蜜故。得阿耨多羅三藐三菩提。

故知般若波羅蜜是大明呪。無上明呪。無等等明呪。

能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜呪即説呪曰。
竭帝竭帝 波羅竭帝 波羅僧竭帝 菩提僧莎呵
摩訶般若波羅蜜大明呪経


(つづく)

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川島徳慈しるす

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳院

  • 2019.09.05 Thursday
  • 08:00

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳院


≡ 玄奘三蔵と摩訶般若波羅蜜多心経の物語❸ ≡



◎赤馬で助かる!!


砂漠の前で独りになる。絶体絶命の玄奘三蔵。

玉門関で遂に孤独の法旅となった。この近くで有名なのは関所は陽関(ようかん)。
さらに荒涼とした砂漠が広がっている。
 
生えている植物と言えば、ラクダ草、積々草(せきせきそう)、紅柳(タマリスク)の三種類

ぐらいしかない。ラクダ草というのは、砂漠の舟の異名を持つラクダしか食べられない。

ラクダが荒涼とした砂漠を通る、そこにラクダ草生えているというのもまったく不思議だ。



 
玄奘はその大砂漠を行った。これにはおもしろい噺がある。彼の石盤陀と入っていく時に、

若馬を買い、一緒に同道していた老翁が、

「三蔵法師さま、そんな若馬では無理ですよ」と言った。さらに、

「私のこの馬は伊吾(ハミ)まで十五回も往復しています。大変丈夫で、しかも道を

よく知っています。私の馬に乗ってください」と。


それはやせた年寄りの赤馬であった。鞍には鉄のついた漆鞍であった。

で、「換えましょう」というわけ。何故かくも簡単に換えたのか?

それには伏線があって、玄奘が長安にいた時分に、

「自分は天竺に行けるか」と易占の占い師に観てもらった。

すると「あなたは年取った赤い馬に乗っていますよ。漆塗りの鞍を載せていますよ」と。


その赤馬を見たらその通りだった、それで換えたというお話。

その老赤馬に乗って天竺に向かうことになった。馬は相当なベテランだ。

砂漠なんかは経験値とか勘がモノをいう。この赤馬に命運を託した。


その時、玄奘は佛菩薩、ご神霊に固く誓ったという。

「私は、いかなることがあろうとも西天の方角 天竺へと向かいます。

帰国するときまでは決して東方には向きません。ゆえをもって、どうか神仏の加護を

お願い致します」と。


途中、五つ烽火台(のろしだい)があり、その4番目で水を汲んで革袋に、

千里行っても充分な水を積む。ところが慎重な玄奘も、ここでミスをおかした。


玄奘は此処で、やっぱり水は二つに分けるべきだと思った。百里以上進んだ所で、

水を飲もうとした。ところが水袋が重すぎてバランスを崩して地上に落下、

大切な命の水が全部ゴビ砂漠に流れて消えてしまった。


命の水を失ったので、水を汲みに東に戻ろうとしたが、すでに誓願を立てている。

「西方に行くからご加護してくれ」と神仏に頼んだ。そこでまさに仁王立ち。

だが西に突き進んだ。赤馬に任せて。玄奘は西へ西へと向かうが、四晩五日まったく

水なし。それで砂の上へ倒れた。赤馬も一緒に倒れた。万事休すだ。



朝方なると涼しい風が吹くので、馬は立つ。玄奘三蔵も立ちあがる。

それでまた西に向かって暫く進んだが、赤馬が玄奘の指示に従わず違った道を

進んで行った。止めようとしても進む。すると、突然、広い草原に出た。

やっぱりベテランの馬の感覚(勘・経験値)はモノをいった。


玄奘三蔵は、まるで夢を見ているようだった。

馬から降りて、十歩ほど歩いて戻ったところに水が湧いていた!!

その水を飲んで玄奘も馬も助かった。




◎乞食が「般若心経」を施経してくれた!


道の無い砂漠。時折ある草以外に何もない。玄奘は水なしで、ここを歩いて倒れた時に、

神仏に祈願するために「般若心経」を読んだ!!

後に、般若経典の護法神となる「深沙大将(じんさだいしょう)」が玄奘三蔵の霊夢に

出てきたのは、この時のことです。

どうですか、読者の皆さん感動的でしょう(笑)


それに連なる話がある。

成都にいた時に街に病気の乞食(こつじき)がいて、その人を皆避けて通っていた。

その人に玄奘は薬を与え施しをする。

そしてそのお乞食が「私が大切に持っているお経をあげます」と言ってくれたのが

その般若心経だった。


その般若心経は、玄奘三蔵在世の300年前に活躍していた訳経官・鳩摩羅什(くまらじゅう)

が訳した般若心経だったのである。鳩摩羅什はクマーラジーヴァの音写である。
玄奘三蔵は、その経本を法旅の途中で始終読誦していたと思われる。


繰り返し、繰り返し、

「タッディヤター ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボディースワーハー」と。



◎すべての衆生を大切にせよ!
 
玄奘三蔵は独り砂漠を彷徨い、仮死寸前のところまでいった。そして九死に一生を得た。
おそらく其処は神々峡(しんしんきょう)だと言われている。この辺りには豊富な水脈があり、

湧き水が勢いよく流れている。湧き水が噴き出しているのだ。


神々峡から下をずっと向こうを見ると伊吾(いご)の町見え、前方に天山山脈がある。

此処で玄奘は自分の行く道が間違いないと確信したであろう。天竺への道だ。

しばしほっとされ感謝の般若心経を、声高々にお唱えした筈だ。



 
この辺りから目的地の天竺・ナーランダー寺院に着いたのは、さらに3〜4年かかった

といわれている。


玄奘三蔵は、赤馬と深沙大将(沙悟浄)の助力を得て、護られ窮地を脱したのだった。

玄奘三蔵の真の守護尊は誰か?

赤馬・深沙大将・般若心経を遣わした、その御方は誰か?

あなたはどう考えますか?


その答えは、観世音大菩薩さまです。観音様です。

救いを求める時には、観世音大菩薩さま という。

自分が修行し、施す時には観自在になって「般若の智慧」を得て、

観世音となって救いを垂れる。


観世音と訳したのは、鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)三蔵法師。

観自在と訳したのは、玄奘三蔵。

「摩訶般若波羅蜜多心経」を読誦して、真のホトケの道を行くものは、

この法恩を深く慮りなさい。


あなたは「南無観世音菩薩」とお唱えしなさい。

身の回りすべてがマンダラ諸尊の一員となる。

馬や動物は人と共にあり、よく助けてくれる。

神霊、動物共に大切にせよ!

摩訶般若波羅蜜の奇跡的霊験は、人と神霊、動物問わず機能する。

周囲をマンダラと化すのだ。

般若心経をお唱えする者は、すべての衆生を大切にしなさい。
(つづく)

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川島 謹記

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川島徳慈しるす


密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳亜

  • 2019.09.04 Wednesday
  • 08:00

密教【摩訶般若波羅蜜多心経の大功徳亜


≡ 玄奘三蔵と摩訶般若波羅蜜多心経の物語❷ ≡



◎16年間の法旅の道すじ


鄭善果の引き立てを受けた玄奘三蔵。

試験に合格して僧侶の作法から摂大乗論などの佛学まで詳しく学んだ。

では、天竺(インド)への法旅に出たのは何歳の時か。

それは入門して13カ年が経った歳、すなわち玄奘26歳頃のことだった。
玄奘三蔵が天竺への法旅をスタートしたのが26歳。帰朝したのが43歳。

実に16年間にわたる大法旅だ。

玄奘は、偃師(えんし)県 洛陽にお生まれになり、兄の僧と一緒に浄土寺で住んでいたが、

後に長安のほうに行った。唐代の初頭は治安が悪かったので、四川省の成都(せいと)に

隠れて、治安が安定してから長安に。さらに長安から赤い道をずっと安西(あんせい)まで

行き、玄奘は北道ルートを行った。


この辺りをクチャと言い、アクス―ウチトルファン、天山(てんざん)の山脈を越え、

現在のキルギスタン、ウズベキスタン、アフガニスタン、カイバル峠を抜けて、パキスタン、

ここから北インド。こういうルートで入印した。
 
そして北インドからガンダーラ(ペルシャ)、此処からは完全に天竺国。先ずカシミール。

玄奘は、はじめに仏蹟の参拝し、ナーランダー寺院に到着。仏教の修学に励む。後に

南インドに行き、またナーランダーに戻り、帰路は天山南路を通って中国に帰朝。


◎ナーランダー寺院までの砂漠の受難


三蔵法師の行き先はナーランダー寺院。当時インド最大の仏教寺院です。

インド最大ということは全仏教の総本山ということで、1万人程の僧侶が仏教大学で

勉強していたという。
 
出発してから再び戻るまで十六年間。
乗り物は馬、駱駝、徒歩です。まず長安を出発して、馬で河西回廊(かせいかいろう)を通る、

黄河(こうが)の西を行く。当時は治安が悪く、国外旅行禁止だった。


しかし玄奘は佛法・衆生の為だと、国禁を犯して出発した。

はじめは昼間歩いていたが、「玄奘という僧侶が向かっているから捕まえて断罪せよ」

という通牒がまわり、仕方なく夜中に歩いたという。安西(あんせい)というところまで来て、

そこで乗ってきた馬が死ぬ。後ろからは追っ手が迫る。


玄奘には、小僧(身のまわりの世話童)が二人付いていたが、一人は敦煌(とんこう)に行って、

もう一人は体が虚弱だった。それでは、旅に連れていくわけにはいかないので、

二人の小僧を涼州に帰らせ、玄奘はもう後は前にある大砂漠に突き進むしかないという

ことになった。はじめの大ピンチです。


で、馬を一頭買った。若駒です。石盤陀(せきばんだ)という男を馬子(まご)にし、

それで玉門関(ぎょくもんかん)という関所跡、ここを避けて通った。時代によって変遷が

あるが、当時は玉門関の向こう側に瓠蘆(ころ)河という川が流れており、玄奘はそこを

行って避けたようである。
 
関所が要所要所にいくつかもあり、陽関(ようかん)も有名な関所であった。

仮にそこで捕まってしまったら、馬子の石盤陀(せきばんだ)でも殺されるわけですから、

途中で心情が変わって、玄奘さんを斬り殺そうと夜中に襲いに行った。

私(石盤陀)はもう行きたくない。王法を破りたくない。家族もあるんだ、ということで

脱落。玄奘は「では、行きたくなかったら私一人でも行こう」と、引き止めなかった。

それでとうとう一人でいくことになった。
 
玄奘三蔵は砂漠の中で孤独になった。

荒涼とした砂漠を前に何を思うたのか。絶体絶命だ!

(つづく)


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〔『摩訶般若波羅蜜多心経 小経本 印施の募集』〕
来年2020年(令和二年)摩訶般若の功徳を込めた小経本を作成し、広く布施行を
おこないたいと思います。ご協力頂ける方を募集します。詳細は後日発表します。
kawashima.seitai@gmail.com までご連絡を。
川島 謹記
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川島徳慈しるす

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