改定版 霊魂安鎮のこと【旧盆での折型の活用法】

  • 2014.08.08 Friday
  • 12:00

改訂版 霊魂安鎮のこと

【旧盆での折型の活用法】


霊魂安鎮の折型を密用する

◎祖霊のみたまの安鎮をおこなう

霊魂の安鎮といっても、通常は吾が身にまつわるご先祖・祖霊から安鎮供養をおこなうものである。

祖霊には徳の高い方もおられるが、三悪道に堕ちて苦しんでいる方もおられよう。子孫に祟るのではなく、苦患(くげん)にあえぎ存在が儘ならないから有縁の子孫に助けを求めてくる、そのような実例を案外見かけるものである。

神僊の教えには「過去七代の祖霊の冥罪過をなくさなくてはならぬ」というものがある。

七代まで遡ったら途轍もない人数になってしまう。この一事だけみても、そうは簡単に「僊」など得られないのである。

そのうえ順序正しく修道して、必要なご霊符やご神宝など受け伝えていなければならない。余程の僊縁がなければ成就することは難しい。


◎『佛僊神道』の真義

わたしがあえて「佛僊眞道」を標榜する由縁は、先祖供養の法は佛法によるからである。神法は全ての霊魂に対応するものなのである。

日本の仏教の法式は、純粋な仏教というのではなく、唐土の道教の影響を免れていない。位牌・墓石をつくる様式は道教からの由縁である。

「佛僊眞道」の眞道とは「神道」のことであり、佛僊の方法も取り入れて「僊」を目指すということである。

禅僧の白隠禅師は佛僊であり多くの「成僊」の法を遺した。佛法には「生きとし生けるものを救う」という大慈悲の建前あるゆえに、凡夫をして「仙」たらしむる法があるのである。

「軟酥の法」「内観の法」「延命十句観音経の提唱」これらは「仙術」である。仙術であるがホトケの悟りも得られるものなのである。実地にやってごらんなさい、その真実がよくわかる筈である。

ともあれ祖霊霊魂の御供養に、佛法も神法もありはしない。その境涯の苦患から逃れさせてあげればよいのである。

そういう意味では11月のはじめは重要な期間であるが、お彼岸やお盆、ご命日は霊界の規則により、よくご供養が届くものなのである。


◎日本の霊的遺風すら知らない若造たち

霊術とか整体に凝るのもいいけれど、自分の先祖くらいはきちんとご供養しないといけません。この頃の若造は屁理屈ばかりでお墓詣りの仕方すら知らない不届きものがいる。

知ったかぶりの整体の知識や霊術云々ふりまわしてもダメですね。日本の霊的遺風すらできない人間に大成なんかありはしないのです。ほんとうの整体操法なんてできはしません。それが証拠に全然効果がありません。自分で言うほどの効果なんてないのです。

整体の仕事を「おまんま食べる為」とか言う愚かな小僧もいますが、整体法の創始者・野口先聖も二代目も草葉の陰で哀しんでいますよ。飯の種にするなんていう姑息なことを言っているから、いつまでたってもこじんまりして魅力がないのです。

もっともそういうのは若者たちだけではない。戦後派の団塊の世代なんかもどうしようもない連中です。ことごとく反日本人が多い。仏事も知らないアメリカかぶれの馬鹿も多い。すべて戦争に負けたこと、その後のエセ民主主義教育が原因している。

しかし、旧日本軍の跋扈せる世の中がよいのかというとそうではない。わたしは日本の成熟はこれからだと思い、老いも若きも同志たる人との交流は歓迎している。

旧盆は8月13日(水)〜16日(土)です。今回は一体一体「折型」を密用してご供養したいと思います。自分で作るという方はそれで結構です。

当方に「折型作成」ご希望の方はメールでご連絡を。
締め切りは8月10日です。必ず住所・氏名など添えてください。
・「折型」は10体一組です。
・祖霊の名前もお知らせください(こちらでもご供養させていただきます)。
・「折型」は郵送します。


マレー猫NO3だにゃ〜 あたちのしっぽ見ろや 長いだろにゃ〜 ネコは先祖ネコ供養できないから人間がうらやましいにゃ〜 でも人間は猫缶(猫餌の缶詰)を堪能できんじゃろー
 

改訂版 神法道術はオマンコである

  • 2014.07.09 Wednesday
  • 16:19

改訂版

神法道術オマンコである !




江戸時代の女湯の様子「競細腰雪柳風呂」(落合芳幾画)である。

◎神法道術はオマンコである

神法道術(しんぽうどうじゅつ)というのは、体系的な神の法から禁厭(マジナヒ)に至るまでの法術のことをいう。
(※禁厭:きんえん、マジナイと読む。まじないは呪いとも書き、「交名霊」であり霊と交わることを意味する。呪いはのろいとも読め、のろは祈ることに通じる。のろいの反対は祝いであり、祝うに通ず。)

霊術も神法道術(かみわざ)の範疇に入る。

霊術も道術もオマンコだというわけである。

この言は斯道において達人とされた、ある方のお言葉である。

では、ひとつ引用してみよう!

『・・・母と云ふ文字は女と云ふ文字に乳房が三つついたところである。愛宕山の頂上が繁るころは乳房もはってくる。ほんとうの女になる。金銭に対して乳房をつければ利子と云ふ子供が生まれる。それもポツンと生まれるのではなく苺の実のように群生する。苺は草かんむりに母である。毎日の生活の中に乳房を忘れないこと。行動敏活となり海の如く広がってゆく。私は五年前、〇〇先生のお宅で霊学の話をした時があります。
その時に私は云った
「神法道術はオマンコである」と。誰れもその時は質問する者がいませんでした。今初めてこれを申します。』

どうですかこの珠玉の金言は!!

また別のところでは次のように説いている。

『・・・フロイドはリビドと云ふ事を説いた。リビドとは人間行動の奥にある生命力で性衝動にも通ずる。一時フロイドの精神分析学から何もかもリビドにした人もあった。万葉集の「山守の 里へ通ひし 山道ぞ 茂くなりける 忘れけらしも」もリビドが入っていると云ふ。その点からすれば何もかもリビドに帰一される。それほど珍らしいものではなく普通人間に備わったものである。アタゴヤマである。人はアタゴヤマの生殖に気づき母なる大地と呼んだときには大地がアタゴヤマである。アタゴヤマには成熟がある、生産増加が自然に行はれる。「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」(旧約聖書・創世記一章二十二節)・・・』

まちがいない、確かですねー、この説は。


◎女の喧嘩

一番上の絵図は、江戸の女風呂の様子を描いた「競細腰雪柳風呂」である。

落合芳幾(おちあいよしいく)の作品である。落合芳幾は一恵斎芳幾ともいい、天保4年から明治時代後半にかけて活躍した浮世絵師である。

この作品「くらべこしゆきのやなぎゆ」と読む。

絵のむかって左のほうでは、女が大喧嘩をしており、一人は桶を振り上げ、一人は転がっている。そして周りが止めに入ったり、突然の出来事に驚いている様子が生々と描かれている。

女の風呂、オマンコの饗宴である。まことに風呂屋の三助が羨ましいかぎりである。

三助とは、銭湯で「釜焚き」「湯加減の調整」「番台業務」の三役を兼務または介助する者なので、是くいうのですが、わたしなどは江戸時代に生存していたら、風呂屋に就職して三助になりたかったものです。

もっともわたしの場合は「三助平(さんすけべ)」となりそうですが!?

浮世絵の通り女の喧嘩は無心ではあるが、その実は欲が深い。これ、女人成仏が難しい由縁である。我れを忘れてしまって突っ走る。ヒステリーだ、野々村議員だ。

女は施しすること。施しを忘れぬことが、地獄行きを免れる唯一の方法だと言われている。だから、「後生(ごしょう)」ということをよくよく考える必要がある。


わたしとしては、西王母さまを信仰するか木花咲耶姫さまの教えの実践をお勧めする。詳しくこの辺のことを聞きたい人は、きちんと連絡すること。



「襟足を洗う女」(歌川豊國画)

◎エロであれ

エロであっても恣(ほしいまま)にするのではありません。

やはり節操がないといけません。

オマンコは工夫が必要です。マンネリでは不可ず(いけず)です。

男は回春、女は化月。

足の第一遮骨、親指と第二指間に踏み込んだ足の力が十全にゆくようにする。この部位が腰椎第三第四につながっている。腰椎第三第四は性の急処です。正しい歩き方、是れ「回春法」の要諦であります。

如何に女を喜ばせるか、喜びを共有するか、こういうことを世の男性やクソ真面目な霊術マニア連は考えたことありますか?

いままで何冊も霊学関係の本など著わしている書き屋の先生やその道の大家ぶっている人たちに
会ったことがありますが、大体が一体この人のどこに魅力があるの?という体裁でしたね。

リビドー・生命力を全然感じなかったですねー。デブだったり風采のあがらないチビだったり。

そんなわけで、あなたさまのどこが神様に通じているんですか?という感じです。
みなさん、ご自分の眼で確かめてくださいね。わたしの申していることに納得されるはずです。


  
覆面レスラーのデストロイヤーと現在の素顔

まるで覆面レスラーみたいな感じで、社会の表面に堂々と出てこれないのでしょう。すべてリビドーに自信がない、腰抜けである、これが本当の理由です。
(※容姿風貌を見られたら、書いていることや言っていることを信じてもらえなくなるので、表面に出てこれない訳です。)

だから密教霊術の修道者は
「霊術はオマンコである」と言い切れなきゃだめなのですよ。

有言実行でやってのけなきゃダメなのです。本物の「助平(すけべえ)」じゃなきゃ修行なんかできはしないのです。

「助平」の元は、性力であり精力であり、感情でありエネルギーなのです。要するにリビドーなんですよ。これ密教霊術の土台です。これを元にして「増えに殖える」のですよ。



おまえさー もろに言うなよなー まあトンガリも大好きではあるがねー

滝行気合法の新人研修会

  • 2014.05.29 Thursday
  • 00:00
滝行気合法の新人研修会

先般、滝行気合法の研修会をおこなった。

滝行での禊ぎ法、そして霊術の訓練法の真ん中に位置する「気合法」を研修したわけである。

二十代半ばの若者3名が研修に参加し、うち2名が実地研修に参加した。

気持ちも新たに修行・修学して、非常に静謐な中で実地の訓練をすることができたと思う。



修行における三証

仏教、特に日蓮系の教学では「三証(さんしょう)」ということを云う。

すなわち「文証・理証・現証」である。

正しい法には、必ず三証があるのだと説く。

文字の証し、道理・教理による証し、そして先の二証よりも重要なのが、現証である。

この三証が整っていなければ、正法ではないのである。

文証・理証が「現証」を伴って顕現することは、ほとんどない。

そういうことが起きるのは、祖師とでも申すべき御方の上にしかないものであるが、この度「塩川大瀧」の御神霊(青龍権現)とわたしの間において、三証が相整う奇瑞が現れた。

こういうことは生涯に一度くらいのことだと思う。

自信をもって青龍権現とつながりがあると断言できる。

このことは著わせば一冊の本になるであろう。



とにかく修行すること

理屈を云わずに修行することである。

たしかに修行してゆくと師友先輩から指導ないし注意・忠告を受ける。

だがここが肝心で、注意を受けるところまで修行がきたわけで、素直に自分のものにしてゆくことが肝要である。

しかし、残念なことに「自立してゆくこと」と「自分勝手に粗雑に修行らしきもの行なう」ことを混同している者がいるわけである。

頭の出来が悪いのか?元々下品なのかはわからないが、理解できずに落伍してゆく者が多いのは実に嘆かわしく哀しいことだと思う。



若者に期待する

この度参加している若者たちは、なかなか見どころがある。非常に真面目で今まで来た連中とは違うと感じている。

わたしの培ってきた法のエッセンスを若者たちに伝授してゆきたいと思っている。




塩川の青龍権現は躍動しはじめた!
 

二期生卒業おめでとう!【霊山巡礼と狗賓の仕業】

  • 2014.05.02 Friday
  • 12:00
二期生卒業おめでとう!

【霊山巡礼と狗賓の仕業】



今日5月2日(金)は、八十八夜ですね。いよいよ夏も近づいてくるわけです。むかしの夏というのは6月あたりのことですね。


https://www.youtube.com/watch?v=qqBqghm8oB4 『仰げば尊し』卒業の歌

さて、この度の手箱大瀧神境巡礼で、二期生(昨年と今年巡礼した連中)はご卒業となりました。

以前の一期生とは、また違う形での卒業です。

卒業者は、今後わたしと一緒に修行することは、二度とありません。 

これは、いたしかたのないことで、「山神界感通秘詞」「狗賓去るの秘言」などをお唱えせよと指導しているのに、全然憶えない、やらない、これでは不可ずです。

山に入っても、上記の「入山霊唱」や「入山護符」を持参しない人間は、狗賓(ぐひん)に取り憑かれるのです。

また「禊ぎ」しなければいけないと言っても、きちんとやらない。冬季の禊ぎを完遂する約束を違えて入山する。こういうのも「狗賓」に憑かれるものです。

「禊ぎ」は滝の冷水を浴びればよいというものではない。深い「内省」や「心の修養」がなければ、真の禊ぎにはならない。

狗賓とは、位の低い「天狗」のことです。こういうのは「魔界」「邪界」に接点を持つ霊物です。

辞書を引けば「狗賓」とは、天狗であり、うぬぼれの強いことであり、またそういう人とある。

食べ物に関して卑しいことをしたり、博打・勝負事に興じたり、師の許しもなく勝手なことを教えあったり、全部「狗賓」の所業です。

ですが、霊的に天狗が取り憑いたからという理由だけで、そういう下品になったのではありません。

元々、そういう部分があったのです。人を小バカにするような振る舞いをしたり、見当はずれの金銭を要求したり。許可もなく、置いてある食べ物を勝手に開封してケモノみたいに食べたり。
(※さらに言えば、どのような経緯で開封したのか詰問すると、二人で開けたとか、適当なことをいう。同時に箱を開けられる筈がないんで、初動時に誰がどうしたと正直に言わない。こういうのを姑息といい、嘘つきというのです。我が身かわいさに人の名前をだす。まさに狗賓(犬畜生)です。)

あるいは法友を「あま」呼ばわりしたり。卑しくて狗賓以外の何者でもありません。実際、顔がそうなっています。昨年と敬虔さ、態度と顔が違いました、二期生は。

ですから卒業の理由は一つや二つではないのです。積み重ねなのです。

そういうこと一切を、わたしが導師として、いま感じ、言い出したとでもお思いか?

それは違います。ずーと前からそう思っていましたが、自分で気付くのを待っていたんです。

因縁心癖や霊的原因の底の底まで、わたしはお見通しです。

一期生・二期生の卒業生、両方に言えることは、「慢心」が強く、師匠をどっかでなめているのです。

一期生は「信仰心が欠落していて、生まれつき信心が弱い」ことが卒業(脱落)の核心部分です。

二期生は「うぬぼれ強く、戒めなく、狗賓に堕ちている」ことが原因です。

大瀧霊境から今日知らせがありました。

「おまえの連れてきた者のなかに大瀧神境の一霊界宮殿を足で踏んだものがいる」という祟りです。

また「おまえの連れてきた者のなかに佛のほうの真言を神域で唱えたものがいたが不敬である」という祟りです。

まあ、いずれにしてもそういうことは、導師であるわたしのもとに来るわけです。

この霊祟や狗賓に憑かれていることは、卒業を記念して、わたしが責任を持ってすでに取り去る祈願神通を施行しました。

大瀧霊境の浄化力は抜群なのです。だから心して巡礼しないとダメなのです。

浄化に伴うクリーニングで自滅する結果になります。

今後はこれを力に換えていってほしいと思います。これがわたしが二期生に贈る最後の言葉です。

いまの心境は、哀しくもあり、嬉しくもあり、というところです。

しかし、わたしは新たなる法の峰に向かって、ただひたすらに歩むだけです。


     いまの心境の表現

〔舌代〕
二期卒業者は、今後わたしの伝授した法の一切を施行することを禁じます。勝手に行なっていることがわかった場合、即「逆法」によって「霊祟呪詛の法」をかけるか、訴訟を起こし、相応の賠償をしていただきます。あしからず。

平成26年5月2日(金)

花角有川島龍徳 謹んでしるす

改訂版・ お知らせ【滝行気合法の実地研修会】

  • 2014.04.25 Friday
  • 11:54
改訂版・ お知らせ

【滝行気合法の実地研修会】


この修行を一期でもやってごらん、すごい自信がつくよ。専門学校や大学を卒業したとき以上の自身と念力が備わるよ。トンガリ以上にトンガレるよ!?

来月5月に『滝行気合法の実地研修会』を行ないます。

本会の滝行法を学び、川島導師の実地指導を受けたい方は、下記の要綱にしたがって、お申し込みください。

滝行研修(是は座学です。基本的な行法や修行方法を学びます)

滝行実地修行(後日、塩川にて修行いたします)

(要綱)

5月18日(日)10:00 滝行研修(洗足・川島整体にて)

5月25日(日)早朝 滝行実地修行(塩川大瀧にて)

※指導を願うものは、以下提出。
住所・氏名・電話番号・生年月日・性別・メールアドレスを明記の上、メールにて当方へ。

※春〜夏は最低月に一度は、一緒に修行します。

※秋からは毎週一度(日曜日)に修行する意志のある方。

※全参加できない方は申し出て許可を得ること。

※理屈を云わず霊術・気合の真髄をつかむ所存のある方(これが一番重要)

※講習費用、毎回の会費をきちんと支払う意志のある方。
講習費10万円。(二回分納可)
毎回の会費500円。
全て会の維持費にします。

※念力向上、禊ぎ浄化、是を間違いなく授けます。

※プロになりたい人は厳しく指導します。申し出なさい。
そのうち内弟子制度を施行したいと考えています。

以上、お知らせします。詳しいことはメールにて致しますので、そちらをご覧ください。

(ご注意)
わたしのもとに昨年以来、何通ものメールや電話などがあり、滝行をやりたいという問い合わせがあります。
講習費やその他条件を提示すると、なしのつぶてで返信さえよこさない、不届き者がおります。
こちらは商売でやっているわけではなく、日本の所産である精神文化の深奥を冬場の滝行や気合法でつかんでゆくということが一大目標なのであり、本気で修行を希求し、行を愛するものだけがくればよいと思っております。
人生は一度きりであり、本気で何かをつかもうと思うのなら、費用と時間をかけなさいと言いたい。
そして健康でありさえすれば年齢なんか関係がありません。
本気の気合を冬の滝場でやっているものが日本全国でどれだけおるのか考えてみてください。
そして今年からは大山・富士山の登拝も行なってゆきます。
また、手箱神山・大瀧霊境の巡礼も致します。
只々、来る者の真剣さを希望しております。

川島金山しるす

滝行の功徳【遠離因果法然具】

  • 2014.02.26 Wednesday
  • 00:00
滝行の功徳【遠離因果法然具】

お滝の修行の功徳とは何であろうか?

いくつもの効用があることは今までさんざん述べてきた。

吾が会の滝行は、気合法やチャクラ内観法、禊ぎ法などを併修する高度の行法である。

功徳・効用の一つに「遠離因果法然具(おんりいんがほうねんぐ)」ということがあげられる。

この経文の文句は、「妙法蓮華経三昧秘密三摩耶経(偽経)」の精髄を56文字にまとめたものの一部である。

56文字全体を「本覚讃(ほんがくさん)」と言い、天台宗の本覚思想を具現した経文である。主に天台宗や修験道でお唱えする。高野山真言宗でも奥ノ院の水行場近くでお唱えする。

経文全体は次の通りである。

帰命本覚心法身(きみょうほんがくしんぽっしん)
常住妙法心蓮台(じょうじゅうみょうほうしんれんだい)
本来具足三身徳(ほんらいぐそくさんじんとく)
三十七尊住心城(さんじゅうしちそんじゅうしんじょう)

普門塵数諸三味(ふもんじんじゅしょさんまい)
遠離因果法然具(おんりいんがほうねんぐ)
無辺徳海本円満(むへんとくかいほんえんまん)
還我頂礼心諸仏(げんがちょうらいしんしょぶつ)



わたしのところでは、種々の印契(いんげい)を組み換えながら奉唱する。

滝行みそぎ行法を行なっていて、勤行の折りに「遠離因果法然具(おんりいんがほうねんぐ)」と唱え奉ると、深く期するところがある。これは一昨年からそうなのである。

「遠離因果法然具(おんりいんがほうねんぐ)」、意味は「因果を遠く離れ法然として具(足)している」という意味である。

わたしはこれは「惑業・因縁が切れる」ということだと理解して奉唱している。

「無所不至印(むしょふしのいん)」という名称の「佛塔の形を表した印(大卒塔婆印)」を組みつつ行うのである。
(※上記の印図参照)

禊ぎで浄化をするというのであるが、具体的には自分をがんじがらめにしている、諸々の因縁が切れてゆく。これがお滝の修行の一番の功徳である。

「普門塵数諸三味(ふもんじんじゅしょさんまい)」とは、佛僊の諸々の三昧のことをいう。要するに種々の三昧(瞑想の極致)に至る修行法があるということであり、それによって「因果を遠離」するのである。

滝に入るというのは、「霊水による三昧」であり、「禊ぎによる浄化の三昧(瞑想)」ということである。

原因を浄めることで果報が変わる。つまり、縁起(縁)が変わってくるのである。因が変わるので、縁も変化し、結果が変換するということになる。

一昨年からこの経文をお唱えするたびに、このことを深く感じていた。印契を組みつつ奉唱すると、心に深く刻まれ、因縁を越えてゆくことが実感される。

このことは修行者にとって本当にありがたいことなのである。

人間は因縁因果の操り人形のようなものであるからだ。真の自由人たらんとするならば因縁を切らなければいけない。しかしながら、そんなことは人間業では不可能であり、実現することは難しいのである。

だが、塩川での滝行禊ぎは、たしかに「遠離因果法然具(おんりいんがほうねんぐ)」の功徳を与えてくれるものである。

このことは初めてお話し、嘘偽りのないことを明言しておく。真剣に取り組めば必ず結果が出る。



功徳をもらえるのか〜!!

改訂版 冬至【年筮と神僊吐納法の実践】

  • 2013.12.22 Sunday
  • 00:00
改訂版至・一陽来福の功徳あり

【年筮と神僊吐納法の実践】

本年もいよいよ終わりに近づいていますね。

恒例の「冬至の年筮」をやるときが来ました。

「一陽来復」この日から実際に日照時間が長くなってゆくわけです。

「陽気」が育ってくわけですね。

この日を期して、何かの決意をしたり、易をたてて一年の方針を定めたりすることは、先人の知恵であり、まことに理にかなっています。

今年はわたしのところではお滝をし、さらに「年筮」と指導伝授を塩川で行うことにしています。

冬至から寒に至る期間、これは「生気」であります。一日でいうと、ちょうど午前0時〜3時くらいまででしょうか。

この「生気」の満ちる時間帯に「僊術の修真」を行うわけです。

午前0時から2時くらいまでが一番良い。少なくとも午前中です。

そのときに「吐納法」というものを行う。

「生気」を得て、修真の元にするのです。

また、我々同門の修行者一同は、冬至のお滝の際のお護摩において、「霊供養」を開始します。事始めにふさわしいものと思います。

また一つランクの違う修行が付加されたわけです。心して臨みたいと思う。

(追記)
※岐阜の赤塚先生は22日冬至の午前0時頃を期して、地元のお滝に入り、滝行・修真をおこないました。修道の士は是くの如くあるべきです。
※「霊供養」は柴燈護摩供の際に、供養段によって諸精霊および四足動物霊・施餓鬼飲食の供養を行いました。格の違う護摩供になったものと思います。ここに無魔行満したことをご報告致します。
※「佛僊」の修行の根本は金剛サッタに変化することですが、日本に於ける密教的佛僊の修道は、不動明王が中心になります。
※本年の冬季は寒気きびしく「不動明王」を観想しなければとても修行を全うすることができません。
※佛道による「僊」を得る、その道をわたしは「佛僊真道(ぶっせんしんどう)」と名付けました。江ノ島・塩川に連なるこの道は、来る年に詳しく開示されてゆく予定です。
※来季の手箱神山・大瀧霊境巡拝の為に、弟子のT君はあたらしい大型車を購入、更に荷物用の付属物を車の上部に取り付けました。わたしと同行できる枠としては、あと一名であり、きっちり修真・お滝・仕事などしていて、教えを正確に理解している方をここに募集します。別枠の巡礼者募集も考えておりますが、同行者はあと一名枠です。同行者は車の改装費用の一部を負担していただくことになっています。
 

正法の開示【佛僊真界の修行の必要性(5)】

  • 2013.12.15 Sunday
  • 00:00
正法の開示

【佛僊真界の修行の必要性(5)】

◎変化の修行(1)金剛薩埵

「仙佛」のほうでも先ず「密教=変化の修行」をするには、金剛薩埵にならなければいけない。

「変化」とは「へんか」と読むのではなく、「へんげ」と読む。

金剛薩埵とは「金剛を持するの菩薩」のことであり、このボサツに変じてはじめて「変化の修行(密教修行)」ができるのである。

わたしの師の一人は、この金剛薩埵についてお尋ねすると、「まあ、ホトケさまではあるが、神と人の真ん中くらいの方であり、神人(しんじん)というような理解だな」
と申されていた。

金剛というのは、正確には「金剛杵(こんごうしょ)」と「金剛鈴(こんごうれい)」を持つという意味であり、物質的いうとダイヤモンドのように固いものだと形容される。

教えが完成されているから是く名付けられたのであろう。

完全に金剛
薩埵に変化することは容易ではない。そんなような感じというのでは、観念の遊戯に堕してしまう。

本当に「金剛
薩埵の三昧」に入るにはどうしたらよいのか?

その答えは、法を体得した師匠につくより他に方法はない。密教の正式な灌頂と伝授・解説によってはじめて伝えうるものである。

法としては、チベット密教の金剛
薩埵法が一番完成されており、日本の伝は曖昧なものである。だが、日本の教えというものは、充分に欠陥を補うものがあり、そこを理解できれば難なく修行が出来るものである。

金剛
薩埵に変化する力量を備えれば、死後も大変に役に立ち、「佛僊」の修道にも、「神僊」の修道も体得が容易になるとのことで、実のところは「幽真界」でもこのことは認められている事実なのである。

我々如き人間界の住人が、あれこれ理屈を並べ立てても無意味であって、ひたすら修道・修行したものだけが、道を成すということである。
 

正法の開示【佛僊真界の修行の必要性(4)】

  • 2013.12.14 Saturday
  • 00:00
正法の開示

【佛僊真界の修行の必要性(4)】

◎密教における大日如来(2)

大日如来の教令輪身(きょうりょうりんじん)、すなわち変化身(へんげしん)を「不動明王」という。

日本では最も知られている佛尊である。いわゆる「お護摩」の本尊がその尊格である。

この尊は弘法大師が日本もたらした。

この尊を「不動尊」などともいう。

横浜のわたしの生家の近くには「成田山横浜別院」があり、由緒ある不動尊がお祀りされ、毎日祈祷の読経がなされ、時にはお護摩がお焚き上げされている。

高校生のころから毎朝通ってご真言などをあげていた。

不動明王のご真言は「のうまく さあまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん」である。宗旨宗派などにより読みくせ表記の違いはあるものの大同小異だ。

肝心なのは「まかろしゃだ」である。「まかろしゃだ」とは「摩訶毘盧遮那(マカビルシャナ)」であり、すなわち大日のことである。大日如来の系譜にある佛で、火炎を司る尊だという点。ゆえに「大日大聖不動明王」とお唱えされるのである。

あなたも修験道の衣装は知っていよう、あの出立は「不動尊」を模したものであり、山伏装束の上着(鈴懸・すずかけ)や下の袴は、裾をのばせるようになっており、そのまま「神儀」もできるものになっている。



いまは明治期の「神仏分離令」「修験道禁止令」の影響と太平洋戦争の敗戦、戦後のアメリカ文化偏重によって、神・佛に通じる道が閉ざされてしまっている。

佛はホトケ、神様はカミサマで、分けられて運営されている。神と佛が一つになっている信仰・修道は、ほとんど失われている。

あったとしてもインチキ宗教の妙なチャンポンでしかない。そんなものは「魔界」に通じているものであって、正真の信仰ではない。

諸賢は、わたしの申していることが理解できるか?

今ならば、まだまだ鍵が世の中にはあり、いろいろなところに散見されている。

あと30年も経てば、わたしもいないだろう。いたとしても言揚げするようなことはなく、ただひたすら修真の生活をし、死をスプリングボードとして捉えてコツコツと精進していると思う。

そのころには、世の中には今あるようなヒントすらないであろう。そうならないためにいまこうしてわたしは実践し書き続けている。

不動尊は「お護摩」の本尊であるというだけでなく、多くの滝場でも本尊として奉祀されている。

「たきぎょう」という読み方は、「焚き行」となり、火祥・護摩供に通じている。
「滝行」にも通じ、禊ぎ秘法を意味している。

「たきぎょう」とは、「火(カ)の行」と「水(ミ)の行」ということを意味し、すなわち「カミ」の修行なのである。

そのような認識に立って、密教を応用するとき、その修行は確実に「成仙」に至る道を示してくれることになろう。そしてそれは「正神界」に通じている道なのである。

(つづく)

正法の開示【佛僊真界の修行の必要性(3)】

  • 2013.12.12 Thursday
  • 00:00
正法の開示

【佛僊真界の修行の必要性(3)】

◎密教における大日如来(1)

密教の特徴は、大乗仏教の「菩提心」の教えを基盤としつつ、『法身説法』を説くことにある。

普通の仏教の教えは「応身(おうじん)」すなわち肉体を持った釈迦が説いたものであるというのだが、密教は「法身(ほっしん)」という永遠性を帯びた宇宙そのものの仏が説いたものだというのである。

だが、日本の密教の神髄は、弘法大師空海が説いた、表面的な教義にあるのではない。

大日如来という命名にあることを諸賢は知らなければならない。

このことはわたしの大極秘伝に属するものである。本当の秘密・秘伝を知っている坊さんは、稀有であると思う。

これがわかれば日本の密教(東密・台密)ともに、神界とは違うなどとは言わなくなる。日本に於ける密教(修験も含む)をやらずしてほとんどの人間は正神界などには入界することは能わずである。

ここがわからないものは、中国の道教、インドのヨーガ、チベットの密教などをやらなければ心身を開発できない。

日本人は所詮日本人であり、言語も食べ物も住居も日本の環境を免れることはできない。だから日本でのやり方があるのである。

それをわたしは密教や修験、古武道・武術などのなかに見出すのである。殊に、お滝による「寒行」は一番効果的であり進捗が早い。

普通、十年かかる修行を半分かそれ以下の年数で達成することができる。「三昧」を獲得するのにこれ以上早い方法はないと思われるし、ふつう出てくる「魔境」の対策にもなる。

詳しい理由や仕方などの講義は、実地にわたしとやってゆくしかない。わたしの現役もここ10年くらいあれば上等だろうから、本当に教わりたいと思う人は、勇気を出して訪ねてこなければ道はないと思う。

ほんとうに道に精通している人間は稀なのである。

(つづく)
 

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